本、如何なるほしい物リストに 9月21日

iPhoneアプリ「Item Shelf」で、買いたい新刊をメモしている。書店さん店頭でのその様は、詳らかには書かんけどほんと野暮天、無粋そのもので、都度自己嫌悪するけれども、購入したい本を星で優先順位をつけて上に表示してくれるのが便利で、頻々とつかっている。
その時その時のアイテムシェルフのいちばん上の画面を貼り付けて見ていただこうという趣向。ヤラセなし、そのままの、むき出しのほしいものリストだ! 面白いか判らないけど、おれは知り合いや好きな人のそれに、わりと興味がある!


 グラビアアイドルという百魔番外編 ガビ・デルガドのCDが出た


DAFガビ・デルガドのソロアルバム『ミストレス』がリイシューされていた! リイシュー、といっても、全世界初CD化!

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http://diskunion.net/clubh/ct/detail/AW120628DIW-01

DAF解散(86年にすぐ再結成する)後の1983年の作品で、コニー・プランクプロデュース。ユニオンの特典は<ディスクユニオンオリジナル特典…1983年DAF初来日公演のA4サイズチラシ(羽良多平吉デザインによる蛍光色バリバリ)を当時のまま再現!!>と、シビれるなあ。この公演は実現したのか?(してないようだけど)

2003年のWIREでのライブは、本当に楽しかった。ムーチョ・デ・グラシアス!!
http://homepage3.nifty.com/loom/daf.htm

 グラビアアイドルという百魔6 グラドルとボディビルダー、『果てなき渇望』を参照しながら

ステージには、五列になって選手たちが並ぶ。
「デカイ!」
「もっと、その大きな胸を見せてくれ!」
「ナイスポーズです!」
「肩だ、肩! 肩をアピールしろ」
「キレてるぞ! 優勝間違いなしだ」
「第1章 コンテスト」増田晶文『果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々』(草思社文庫,2012年)


ボディビルのコンテストには、審査基準が何点かある。

筋量の大きさと厚み(バルクとマスキュラリティ)、筋肉の密度(バスキュラリティ)、一個一個の筋肉のメリハリ(カットにディフィッニション)、そして全体のプロポーション、筋肉発達のバランスなどだ(前掲書)。


はなはだ唐突ですが、ボディビルダーとグラビアアイドルを比べてみたらどうだろうか。巨乳がとにかくデカイ(同語反復)、足が長い、腰がくびれているというパーツパーツの良さ。バルクの大きさとか、密度に相当するか。実際にフィットネスで健康的な腹筋を持っているグラドルも、いる。こういうのはモデルさんのほうが進んでいるかもしれない。顔がかわいい、きれい、というのは、ビルダーさんがリラックスポーズ(そういうのがある。池を泳ぐカモのような)をとった時の、笑顔の素敵さに対比できるかもしれない。

あとは、プロポーション、つまりパーツパーツのバランスの良さ。おっぱいが大きくて、腰がくびれていて、お尻がボン!というような、バランスの良さ(一般常識としてのそれを気持ち脱線、超過したそれ)が、グラビアでもやはり重要視される。尤も、この要素は等閑に付して、身長150センチの小柄で童顔なのにIカップでとにかく巨乳!とか、そういうアンバランスさ、フリークス的なところも、グラビアにおいてはウリになったりする。このあたりはちょっとちがう。このことと近いが、グラドルには人柄、性格と体躯のアンバランスさも、評価のポイントになったりする。吉木りさちゃんのような、セクシーなのにアニメ好き、とか、吉木ちゃんのようにキュートなのに臀部(ケツ)が異常に発達(デカイ)していて、それに比して、臀部を覆う三角形の面積が驚異的に小さい、というような要素もある。さらに、女性の漂わせる色気、あどけなさ、そういうものが複合してグラビアアイドルの評価となるので、ボディビルよりもう少し込み入っているのかもしれない(女性ボディビルダーも、表情の豊かさ、女性らしさは問われるので、反論もあるだろう。でもそこを掘り下げていくのは、丈の高い藪のなかを見渡して、何か探すような困難がある)。

では、ボディビルの基準でグラビアアイドルを評価すると、誰がトップに立つだろう。さきの吉木ちゃんは、プロポーション、カットやディフィニッションで優れているが、とくだん巨乳とか、モデル体型ということもではないと思う。よく、吉木ちゃんに会った取材記者の感想や、編集者がグラビアにつけたキャプションなど読むと、「グラビアではセクシーなのに、撮影現場に現れた彼女は親しみやすい普通の女の子」みたいなことが書かれているが、それは彼女のバルクやマスキュラリティの貧しさについて、遠回しに言っているのではないか。撮影スタジオに冨永愛みたいな人が現れたら、だれもそんなこと言わない。畏友・三ツ野陽介さん(http://blog.ymitsuno.com/)が、不思議と吉木ちゃんについて買ってなかったのは、そのせいもあるのだろう。不気味なことをつらつら書いているが、グラドル世界の基準では吉木ちゃんは依然、トップランカー、将来的にも殿堂入りクラスであることはまちがいない。

規格外のボディ、ということでは、"リアル峰不二子"松本さゆき、真実一郎さんが「2009年グラビアアイドルベスト10」で<尾田栄一郎の漫画みたい>と評した護あさな( http://blog.livedoor.jp/insighter/archives/51721027.html)、ニーナ南(活動は3年くらいだったようだが、最盛期の2006年ころも、ほとんど雑誌グラビアに登場せず、そのはぐれメタルばりの出現率の低さから、真実さんは彼女を裸のラリーズに…ってしつこいか。記憶でここに召還したからやや不正確あるかもしれません http://blog.livedoor.jp/insighter/archives/50951104.html)、あと今月の『サイゾー』で表紙巻頭をやったり、つらい過去も話題(http://alfalfalfa.com/archives/5894488.html)の今野杏南(プロポーションもさりながらおっぱいの丸みが史上最高クラス)を入れておきたい。もちろん、昨年惜しまれながらも9年のグラドルとしてのキャリアを幕引きし引退した滝沢乃南も推薦したいが、長いキャリアのなかで蓄えたバルクのデカさとマスキュラリティは半端ないし、プロポーションも悪くないが、<一個一個の筋肉のメリハリ>、つまり<カットとディフィニッション>で、やや劣った(北極海を悠然とおよぐ地上最大の哺乳類シロナガスクジラのように、バランスがどうかとかそういう路線ではなく、人に夢を与えればそれでよいという体型的世界観)。


* * *


冒頭で引用した『果てなき渇望』は三章立てで、最後が「禁止薬物」というタイトル。最も問題提起的でスリリングだ。なぜならステロイド是認派の異端のビルダーが二人、登場して自説を唱えるから。

整形の良さについて力説するグラビアアイドルは史上これまでいなかったように思う。

2010年か、その前の年からか、熊田曜子ほしのあきが嚆矢だと思うが、バラエティ番組で整形疑惑を追及され、「してませんよ〜!」と否定してウケを取る、という「整形疑惑イジられグラドル」というのが登場した。この流れを初めて、テレビ東京テレビ朝日の深夜番組で見たとき、自分はマジかよとかなり驚いた。整形は不問に付すもの、新興宗教の問題と同程度に、電波ではタブーと思っていた。それを逆手にとって、ネタにするという新しさ。もちろんこれは、先々週の「テベ・コンヒーロ」の企画で、無線で指令を受けた枡田絵理奈アナ(もうすぐ卒業! http://tbs-blog.com/erina-m/20415/)が通行人をつかまえて、「お兄さん、童貞ですか?」と聞くような下品な笑いで、斬新さというものはない。実際すぐに飽きた(し、熊田さんが整形しているかは自分は判りません)。が、この「整形疑惑イジられグラドル」、後につづいたのが、杉原杏璃手島優だからまたちょっと、驚かされた。というのも、二人とも整形疑惑どころか、クロ必定の二人だったからだ。初期のDVDなり写真集なりを検索すれば判る。彼女たちはまっクロなのに、そして周囲の人間も「おまえらは整形だろうよ」と思っているのに、そんな内面と空気を無視して「整形じゃないですよ〜!」と今日も明るく否定するのだ。この倒錯は、ちょっと斬新だった。しかも杉原の内面は、適度な上昇志向を主成分とするわりとシンプルなものだと思うが、手島という人はけっこう複雑で、面白い。自分はryuto taonと抱擁家族で一時期、手島をモデルにした曲をやっていた(flowers are red)。

 ボディビルは狭い世界だ。有名ビルダーの動向は、いくつかの尾鰭を伴ってすぐに斯界を駆け巡る。(中略)とりわけドーピング疑惑に関する話題には敏感だ。ステロイドを使っているヤツは乳首が立っている、いや背中に吹き出物があるからすぐわかるといった調子で、最後は声を落として、だから○○は怪しい、となる。(中略)急成長したビルダーやチャンピオンたちなら、一度はドーピングの風評を立てられたことがあるはずだ。だが、そこには非難の口調だけでなく、羨望や嫉妬も見え隠れしている。
「第3章」前掲書


効果があるとは判っているが手を出さない、そういう共通点を、禁止薬物(ステロイド)と整形が、どちらも持っていたとして、その他共通点とちがいは、どんなものだろうか。

『果てなき渇望』によれば日本は、世界一といっていいほど、アナボリックステロイドなどのドーピングに厳しい国で、抜き打ち検査もやるし、陽性なら、もう国内大会には出られなくなる。追放だ。
ステロイドは、肝臓周辺がボロボロになる、ホルモンバランスが狂う、しかも、服用を中止した後も、など、深刻な副作用を持っている。しかし、それ以上に、日本では、ナチュラルに自らの努力で鍛錬された身体の美しさを競う、という価値観が重視されているということのようだ。だがそれでもステロイドに手を出す日本人ビルダーはいる。海外でプロになるにはステロイドがなければ話にならないと考える人もいる。

グラビアアイドルは、そもそも日本にしかない固有文化だから海外でプロになるということはない。AVのように、蒼井そら小澤マリアがアジアで異常な大人気!ということもない(グラビア雑誌もないし、だいたいコンビニに雑誌コーナーがない)。整形のリスク、副作用は、手術の規模にもよるが、ステロイドと比較すると低そうだ。ボトックス注射や糸を使った二重まぶた、シワ伸ばしのように、施術しても、放っておけば短時間でもとに戻ってしまうというところはステロイドと似ている。『果てなき』には、禁止薬物に手を出した選手は、ナチュラルなビルダーと体躯の大きさがあまりにもちがうので、すぐに噂される、後ろ指を指される、とある。つまり、ステロイドを服用した身体は、「ステロイド身体」とでもいったものになる。グラビアアイドルの整形も似たものがある。よく指摘されるように、整形手術を経た彼女たちのおっぱいは、あおむけで寝転んでみても重力を受けて下方に垂れたりせず、一律同様に上を向いてモスクの塔のようにプリンとしている。顔も、どんな顔がだれによって執刀されても、整形顔というのは不思議と一律、似てくる(以下は、ソウルの地下鉄駅で掲出されていた美容外科の広告)。

鼻筋は通り、目は大きくなる。唇は大きすぎず小さすぎず…と、いくつかのルールをふまえてリフォームされた顔は、アジア人ばなれした、最近のラブドールのような、あるいは3Gキャラのような顔になる。これを自分は「ファイナルファンタジー顔」と呼んでいる。地球上のどこかにいそうで、どこにもいない顔。有史以来天文学的な回数繰り広げられ作られた整形顔をすべてスキャンして、その平均値を出し、画面に描出してみたとする。さまざまな人種や国籍のちがいを超えて現出したそのイメージを目指して、きょうもクリニックには女性が足を向けるし、執刀医は切磋琢磨する(この項ここまで。加筆するかもしれません)。



文庫 果てなき渇望 (草思社文庫)
増田 晶文
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まがじなりあちらこちら ぼくの文春読書感想文

今週の文春(七月五日号)はどこを繰っても面白い。原監督の醜聞は、それくらいでギャアギャアいうことはないよ、でも一億はすごいよね、と興味ないが。なので、気持ちが昂進して、たぶんこれまでで初めて、iPhoneフリック入力でブログを書いています。

巻頭のグラビアページ、宮嶋茂樹氏のオウムとの闘争を回顧した文章は永久保存版。わたしどもへの警鐘、そして当時の警察と自分らへの歯がゆさ。〈しかしオウムは名前を変え、体を変え、あなたの隣におるのである。当局が把握するだけでも千七百人。そんなオウムに、二十年前のやつらの凶暴性を知らぬ若者がつられて入信しているのである。〉

コラムは、とても楽しい『評伝ナンシー関』で、印象的な登場のしかたをしていた亀和田氏(新型ニュース番組とそれに出演する若手論客への共感と警告?)、つねに打率が高い能町みね子氏(顔を隠したもんじゅ君への違和感)、いい感じ。文春図書館、『潜り人、92歳』(新人物往来社)、こんな人がいたのか、買わなきゃ。

巻末のモノクログラビアで、清志郎の91年のアメリカ旅行(レコーディングの時か)の写真。同伴していた鋤田正義氏が写真集を出したそう。

その翌年リリースされた『メンフィス』(92)は大好きなアルバム。おれの最初のリアルタイムの清志郎で、CDで何度も聴いた(いまは居住環境や仕事の制約もあって音楽をCDで聴かないし、鬼のようにAmazonでポチっているから何度も繰り返し聴くアルバムもない)。同年ミュージックステーション矢野顕子とコラボ演奏した「世間知らず」もいいけど(矢野さんのバックコーラスが「へいへいへ〜いへい」という、しゃくりあげるような、ブルージーなもの)、愛息タッペー(栗原竜平)君に書いた「ラッキーボーイ」が好きだ。MG'sのあったかくて躍動する演奏と、慈愛あふれるボーカル。これと、同年のライブ盤『ハヴマーシー!』、87年のソロ第一作『レザーシャープ』がおれのベスト。

もしかしたらこの五年間は清志郎ファンにとって、あまり記憶に残らない期間かもしれない(そんなことはないのかもしれない。よく判らない。だいたい、なぜか自分の周りには熱心な清志郎ファンがいない)。でも、自分の趣味はただのひねくれ趣味ではないと思う。上記した二枚のソロは、RCが自家中毒に陥った時に生まれている。RCが順風満帆だったら、生まれてこなかった音楽なのだ。自身の転機(下手したら危機)に、本当にやりたいことを、日本から離れたところで溌剌とやって作った音楽で、だから何十年たっても、瑞々しい。

♯リンク先は、ライヴ盤ハヴマーシー!の聴き所を、共感と愛を込めて解説したブログです。いろいろ書きながら、このアルバムはおれのiTunesに入っていないので、こんど実家に寄ったら、探してみよう。
http://s.webry.info/sp/hanoi-stones-trex.at.webry.info/200808/article_3.html

 「増殖する感謝さんたちと顕在化する感謝型社会への違和、そして分析」のために

まず、/自分が/笑顔になること。/その笑顔が、/まわりに/伝わるといいな…

いつも一年後の/自分を想像しています。/こんな風に/なれたらって思い続けると、/叶う気がして。


この、女の子が発したとおもわれる、ちょっとポエミーな、でも力強い信条の表明というか、メッセージは何であろうか。ビジネス雑誌の特集に出てくる「人間力を磨くことに一生懸命な若者」のインタビューでも、「成功の法則」的なものについて書かれた単行本でのサクセス談でもない。広告です。AKBの、缶コーヒー「ワンダモーニングショット」(アサヒ飲料株式会社)の広告コピーです。ちなみに一つ目が大島優子さんの、二つ目が渡辺麻友さんバージョンのクリエイティブです。JRの駅や車内の、いたるところでこの春、目にする。

AKBは、アイドルです。アイドルの肉声風広告コピーで、こういうものは、異質です(これが、実際に彼女たちが発したことばかどうかは愚問ですし、論旨にとってはどちらでもよいので立ち入りません)。だいたいがアイドルというものは、歌もおどりもそこそこ上手で、かわいければ良いのではないのか? 彼女たちは何をこんなに、一生懸命なのか? 何をどうしたいというのか? でもどうやら、世の中にはそう感じない人が多くいるようだ。それは社会のせいか、AKBというアイドルグループの性質(総選挙イベント、トップチームから研究生までのピラミッドシステム、劇場のお客さん?人からの叩き上げの歴史)のせいか。両方です。性質ということばをもっと意地悪くいうと、システム、マーケティングということばに置き換えられる。

こういうものが蔓延する(幅をきかせる)社会を、「感謝型社会」と呼ぶことにした。このことばは、もうありますか。ググってないので判りません。あったらちょっと、カッコ悪い。

さっきの問いは、どちらとも正解だと思う。より正確にいえば、そういう社会になったから、そういうタレント集団が出てきたということです。流行りだから。追って述べたいが、EXILEもこういうマーケティングです。彼らを見ていると、がんじがらめで気の毒に思う。自分たちの色が出せない。「あんな<なり>で、実は仲間思い、家族思い、スタッフ思いのいいやつなんだよね〜」という言説に、がんじがらめ。いつからアイドルやアーティストが、社会の規範にならなければならなくなったのか。なぜEXILEに、いわゆるワルいやつがいないのか。やだなあ、怖いなあ、みょ〜に変だなあ。だからこれを、考えていかないといけない。余談だが、自分が去年の大晦日の深夜にテレビで『つけまつける』のCMを見てからきゃりーぱみゅぱみゅのファンになっ(て、インストアやクアトロでのワンマンに行っ)たのは、これと無関係ではない。中田ヤスタカが書くきゃりぱみゅの歌詞はあんまり意味がない。そしてきゃりぱみゅは若者の規範として気張らない。だからすがすがしい。逆に言うと、みんなこの重力に苦しんでいる。もっとよくないのは、「そんな重力なんか、最初からないよ?」という顔をしながら苦しんでいる点が、深刻で気持ち悪い(山本英生『ホムンクルス』の、トレパネーションをした人間の目から見える人物像!)。


で、社会のせいだとして、なぜそうなったか。去年、ドラッカーブームがあったのをおぼえていますか。AKBの前田敦子さんが主演した「もしドラ」という映画もあった。ビジネス書が映画に! そしてここにもあの国民的アイドルが! つくづく相性のよさを思わずにはいられない、のちに述べる感謝型社会とAKBの。

なぜドラッカーがブームになったか。マネジメントという発想が重要だという話になったからだ。なぜなったか。「不景気」「デフレ」「少子化」「即戦力」「終身雇用制の崩壊」「転職ブーム」「社内失業」「三年でやめる若者」、、、というようなものが前景化してきたからだ。「もう成長しない日本」(浅羽通明)という時代になって、ダマシダマシ、企業が自分自身をきりまわしていくことが、できなくなった。そんな時代に、先を見据えた設備投資をしたり、人間を増やしたりということは、以前なら当たり前だったけれど、いよいよできなくなってきた。そこで、では、いま抱えている人材を最大限よりよい人間に作り替えていこう、という発想ができてきた。企業が人間をあそばせておくことができなくなった、「社員全員が即戦力!」という時代に突入した。

小林信彦氏や後藤明生(や古山高麗雄もそうかな、あんまり読んでない)の純文学的傾向のつよい作品を読むと、日の当らない、ちょっとアウトサイダーな戦中戦後世代の勤め人とでも呼ぶべき人が出てきて、彼らが小説になんともいえない厚みを与えている。そういう人たちも当時はなんとか生きていけた。しかしもうダメです。組織にいるかぎり、人はつねに、「即戦力」でなければいけないのだから。余剰やあそびはないのだ。見よ、ここ数日の、パナソニックソニー、シャープといった技術立国日本を代表する大手企業の赤字決算、人員削減のニュースを。輸出型製造業だから? そうですか。

企業や社会が悲鳴を上げ、その苦境を脱するためにドラッカーのマネジメントが再発見された。それ自体にNOは唱えない。社会のなかで人が成長するとき、そこには共通するパターンや経験がある。心の持ちようも大事。でも、「もしドラ」がすごく売れたときに、国民全体がマネジメントに興味をもつ社会とは、ちょっと異常ではないかと思った。そしてもう一つは、成長や成功の法則、ルールみたいなものがあったとして、それをうわべだけなぞる連中に不快感をもった。

そういう人たちを「感謝さん」と呼び、そういう人たちがたくさんいる社会を「感謝型社会」と呼ぶことにした。ここを起点にすると、さっきのAKBやEXILEであったり、ワンピースブームであったり、速水健朗さんの『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)で活写される現代のラーメン屋さんであったり、ある種のブラック企業の方法論だったり、いろいろな事象が見やすくなると考える。その背景にあるのは先ほどの、「不況に端を発するマネジメントブーム」であるのだが、それだけの生易しいものではなくて、相互監視的ムラ社会システムであったり、炎上型社会であったり、携帯ゲーム会社であったり、東京電力であったり、日々存在感を増してくる自己啓発カルチャーであったりするのだと思う。結論は「超利他的社会はウロボロス的に転回して超利己的社会になる」という話。テーマソングは後藤真希さんの「やる気!IT'S EASY」(2002)、キーワードは、「目標」「夢」「成長」「笑顔」「感謝」「感動」などとなろう。まずは問題意識と所見を表した次第。

 光文社古典新訳文庫 ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』について事実誤認のおわび


前回、もう五カ月以上前になってしまうのですが、光文社古典新訳文庫ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』が新訳で出て、ほんの触りを読むが早いか、ここで紹介した。

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そこで、この本は先行訳の存在についてまったく触れていない!、と書いた。しかしこれは大ウソである。ちゃんと巻末で、先行訳が丁寧に紹介されている。ろくに読まないで書くからこうなる。それにしても酷い。お詫びがこんなに後になりましたが、大変ご迷惑をおかけしました。

ここで謝ってつぎに行けばよいのだが、みっともない自分はそうできない。けっきょく感想文は書けなかったが、この本は去年読んだ小説のなかでいちばんグッときた。二番も、一般的な小説と言いきれるかはやや怪しい、ナボコフ未完の遺作『ローラのオリジナル』(作品社)なので、信者の信教告白と取られるかもしれないけれど、図抜けてよかった。そのことは書いておきたい!