シベリア少女鉄道 vol.17「永遠かもしれない」於・池袋シアターグリーン

breaststroking2007-05-31


ロシアの小説家ウラジーミル・ナボコフ(1899〜1977)は、生涯にいくつか「主人公と宿命のライバルが作中で激しい戦いを演ずる小説」を書いた。『ロリータ』(新潮文庫)の場合は、本作によって「ロリコン」の開祖となったハンバート・ハンバートと、少女をハンバートの元から奪還せんとする劇作家クレア・キルティ、『ディフェンス』(河出書房新社)であれば、世間知らずで無垢なチェスの名人にして、精神を病み苦しむルージンと、プレイの進め方にもその容貌にも隙がない男・トゥラチ、『ベンドシニスター』(みすず書房)であれば、息子を独裁国家に奪われた男クルークと、独裁者パドゥク。

ここに挙げた三作はいずれも思いつくままに並べたものだが、奇妙なことにいずれの作品も主人公が最期に悲惨な死を遂げる。それらの灰色の結末に、読者は舌の上がざらざらするような不快感を味わいながらも、その奥に豊潤で甘美な文学の妙味を見つけることになる。その味のなんたるかは措くとして、重要なのは、小説を精読するごとに、主人公が必死で戦ったライバルとは、小説のなかで彼らを脅かした登場人物たちではなく、実は小説の外にいる作者ナボコフそのものではなかったかと思えることである。たとえば『ディフェンス』は、精神崩壊したルージンが住居の窓を破って転落自殺をする場面で小説が終わるが、そこまでルージンを追い込んだのは、トゥラチの存在や対戦に伴うストレスというよりは、作者ナボコフが手を変え品を変え小説内のルージンに突きつける、巧みな一連の手筋という風に感ぜられるのである。

それはメタフィクションと軽く一言に呼んでしまうことに抵抗を覚えるような文学的技法だが、池袋駅東口の公園そばのシアターグリーンで、シベリア少女鉄道 vol.17『永遠かもしれない』を見たおれは、150分におよぶ実験作の特異な構造がもたらした身体的疲労と精神的昂揚に体をぶるぶるさせて雨の池袋を歩きながら、「ナボコフナボコフだシベ少はついにナボコフになった」とブツブツ興奮して呟いたのである。

4年前、シベリア少女鉄道http://www.siberia.jp/)の旧作の映像を一度に上映するイベント「さよならシベリア少女鉄道」が大塚のジェルスホールで開かれ、それに日参したとき、おれは次のような記述を行い、シベリア少女鉄道の演劇に筒井康隆の影を感じたことを書いた(大変えらそうだ)。

本作を観ていてまた思ったのだが、やっぱりシベ少の芝居は、ひところのポストモダン文学によく似てる。だれも考えつかないような突飛な仕掛けを作って、その土俵の上で物語を展開させるという意味で。ただ、シベ少の芝居はいずれもが、日本のポストモダン文学史で外すことができない筒井康隆の『残像に口紅を』や『虚人たち』(どちらも中公文庫)を思わせるような作品であるけれど、それらよりも数倍困難で、とんでもないことを土屋亮一という人はやっていると感じる。これは誉めすぎではないよ。

(この項つづく。異例の書きかけですみません)