グラビアアイドルという百魔2 『目玉とおっぱいの大冒険、もしくは「よいアイドルグラビア」とは何か?』第一回

Absolute on power drive
I need you so to keep me alive
Absolute I long for you
A girl to make a dream come true

SCRITTI POLITTI ”Absolute”


小説家の佐藤亜紀はかつて、すぐれた小説を読んだときに共通して身体に訪れるある感覚を、「脊髄のてっぺん辺りの快いうずき」と表現した(大意)。また音楽家細野晴臣は、YMO結成時に、バンドがリスナーに与えるであろう感興を<下半身モヤモヤ、みぞおちワクワク、頭クラクラ>と表現した。

それらに倣って言えば、よいグラビアとは、人の脳髄と腰骨に同時に強く作用するものだと自分は思う。脳髄と腰骨、そのどちらへの働き掛けが不足していても、自分はそれをよいアイドルグラビアと言うことができない。では、「よいアイドルグラビア」とは具体的にどのようなものか。

モデル、撮影者、衣装、ポーズ、状況設定などなど、アイドルグラビアはたくさんの要素が組み合わさってできていて、だから一枚一枚がバラバラで個性があるのだけれど、そうした差異を飛び越えて(さらに言えば見る人の好みやツボも飛び越えて)、グッとくるグラビアには何らかの共通項や普遍性があるように思われる(茂木せんせいにそれは何かと尋ねたら、例のあやしい四文字で片付けられてしまうだろうから、聞くのはやめとこう)。

残念だが、ここでその解答に近接することはできない(グワッ!)。しかし一つの小さな仮説を提示したいとは思っている(ふーッ!)。それは、目玉とおっぱいの共犯関係、シナジー効果とでも呼ぶべきものである。

考えてみれば、彼女が備えたおっぱいは、質量、形状とも、08年現在のグラビアシーン最強の逸物(いつぶつ)であり、かつそれらをぶら下げている体のバランスも超一級であるのに、自分が原幹恵(ex-美少女クラブ31)に少しもグッと来ないのも、ガラス玉みてえにクリクリした目玉の画一性、無個性さ(これは、クリシェ化した「死んだ魚のような眼」というものとは、またちがう)が関係しているとしか思えない(かつて真実一郎さんは、自身のサイトの恒例企画「2006年グラビアアイドルベスト10」―07年版の発表を待望する―にて、原の顔を芸人の友近に似ていると評し、おれもそれに首肯したが、よくよく考えたら友近なら友近なりにグッとくる場面もありそうなのに―さいきんちょっと色気を感じる―、原とおれの間には、待てど暮らせどそんな愛のさざなみは立ちやしないのだった)。

仏つくって魂入れずという言葉ではないが、完璧な肉体に比して、原のペラい表情(判で捺したようにあるいは顔だけコピペしたように均一な笑顔)はまるで複製芸術のようだ。たとえば、横一文字にニッと口をひらいた表情を原はよくするが、無理に吊り上げているため口角が強張っているのが判る(自分の死んだおじいちゃんも家族写真を撮るとき、いつもよく似た笑顔を浮かべていたから判る)。もう何年やっているのだと言ってやりたい(こちらの指摘を検証していただくには、直近では『週刊チャンピオン』4月3日号を、すこし前のものでは『週刊ヤングサンデー』2007年7月19日号に当たられたい)。ちなみに原幹恵と南明菜を顔面硬直グラビアアイドル、略して「ガンドル」と呼び、真実さんが2年前「グラビア界の黒船」を流行らせたようにこの言葉を流通させたいが無理だろう、それは自分でも判っているんだ!(急に激した感じで)

脱線したが(とはいえ「よいグラビア」を考えるために「悪いグラドル」の話をするのはある程度仕方ないが)、話に具体性を持たせるために、ここに三人のグラビアアイドルを召喚しよう。まず基本スペックとして、現在のシーンで平均値を越える人気、スタイル、おっぱいを備えている人をあつめ、そこから、自らの眼球に特異な運動や表情をさせることができる三人を選抜する。

ここで取り上げる三人とは、川村ゆきえ仲村みう田代さやかのことである(以下つづく。そう、ここで「つづく」のだ!)。