きれぎれ文学考察6 前田塁をつつむたくさんの守護霊、あるいは蔵の中の古い刀の話


文芸評論家・前田塁ことオルタナ系文芸編集者・市川真人の活動をおれは十年ちかく見つづけている。2001年1月から実務責任者となり、デザイン、書き手を新たにし、一気に『早稲田文学』を立て直した氏の仕事を、リニューアル直後の早稲田文学がおれの本棚にいまだ何冊か突き刺さっていることからも明らかなように、おれは評価している(http://db2.littera.waseda.ac.jp/littera/mag/wabun/wbungaku.html)。フリーペーパー『WB』(http://www.bungaku.net/wasebun/freepaper/vol016_0323.html)も創刊時こそ、それこそ森山編集長以後のテレビ路線の『QJ』(いまはまた旧誌名に戻っている)に文句をいうサブカル好きみたいに(自分もそのクチだったけど)、「早稲田文学が魂をうしなった!」とか文句を垂れていたけれど、けっきょく毎号手に入れて読んでいるし、中森明夫や山本動物のコラムなんか特に愉しんで読んでいる。しかし、市川氏を明晰で一歩一歩熟考していくタイプの編集者とはおれは思わない。失礼かもしらんけど、仕掛け人、呼び屋、あるいは氏の愛する球団でかつて監督を務めていた人間のかつての仇名で言うなら再生屋という呼び名が自分にはぴったりくる。少ない資本ながら豊富な人脈と運動量ででかい祭りを仕掛ける興行師といった雰囲気。そんな持ち味がいちばん効果的に発揮されたのが、川上未映子の発見と登用であることは異論をまつまでもない。

が、いや、それゆえに、書き手としての前田塁の力量がどんなもんであるかは、自分は判断留保でいた。文芸誌の論文も斜め読みして、「わッ、蓮實っぽい…」とか言って、閉じちゃった。昨年でた『小説の設計図(メカニクス)』(青土社)も時間がなくて読んでいなかった。氏の両方のなまえでの活躍が活発化した2003年から2008年にまでに書かれた論文が収められたこの本は、書き手自身もいうように、「この時代に大上段な文芸評論集か…」と、出たときには自分も多少、唖然としたものの、市川氏の八面六臂の活躍とあいまって、話題になった。去年最もよく読まれた文芸評論集だったはず。

金井美恵子が「小説をなぜ書くか?」と問われ、辟易しながら「なぜなら小説を読んだから書くのだ」と答えたとか、答えるようにしているとか、そういう話は有名である。金井氏が尊敬する後藤明生も、おなじようなことをもっと前に書いている。小説はそれ単独では存在しない。小説は、巧拙とわずどんなものでも、過去の無数の文字で書かれたものの影響を受けて書かれている。イメージで言えば一連の無限につづく織物、もしくはとうとうと流れる大河のように、ひとつひとつの小説は同時代の作品や先行する作品との連関関係のなかのものとして、ある。

本書を読んで自分が思ったのは、前田塁市川真人をかたちづくった、言い換えれば、彼が学んできたテキストや書き手の残像が、すべての行間にありありとした実在感をもって透けて見える。そういうオカルティックな、しかし地縛霊とか背後霊のような物騒なものでなく、守護霊的なものをいくつももった書物である。一読して懐かしい香気を、ぞんぶんに吸った気がした。

そこでいう幽霊とは何か。大ざっぱにいえば70年代中期から90年代中盤にかけて、日本の都市部の大学やジャーナリズムで興隆した文学理論だ。バルトやフーコーソシュールといった構造主義に影響を受けたフランス現代思想家たちの書いたものは、70年代のすえに蓮實重彦渡辺守章といった東大の学者あるいは丸山圭三郎といったフランス系の哲学者をつうじて日本に導入され、渡部直己四方田犬彦、実作者ではあるが筒井康隆笠井潔といった当時先鋭的だった書き手がそれに精神的に感応した(このなかで柄谷行人浅田彰の位置づけは特殊すぎてよく判りません。『早稲田文学』のある時期からの支柱であり、現代思想輸入よりも前からヌーボーロマンをつうじて新思想を血肉化していた平岡篤頼清水徹といった仏文学者も別枠か)。世界的にみれば、日本のポストモダン需要はある歪みを持っていた、またその影響からか、未だに日本の現代思想は20年間(30年?)、停止したままだと、最近では言われるが、文学におけるポストモダンの文化輸入はそういうものだったと思う。

そこでは、作者と本のなかに出てくる主体を切り離して読むというテキストクリティックが提唱され、書かれた、あるいは話されたことばと、それが指し示す対象のあいだには、無限の断絶があると言われた。こうした考え方を敷衍して、柄谷行人は、ことばと貨幣の共通点を論じて、注目を浴びたりした(この問題で柄谷と積極的に議論したのが岩井克人で、水村美苗の旦那さん)。また、「信頼できない書き手」「メタフィクション」といった技術、用語も、こういったポストモダンにおけるテキスト分析的な読み方のなかから出てきたものだと思う。

自分が周辺の本を読みかじった生半な知識では、主に日本におけるポストモダン文学論の主張と定着は上のようなものだったはず。前田氏は、まるまるこの20年の文藝空間のなかで、空気を吸い、、文章(いや、テキストといおうか)を読んできた。その軌跡が透かして見えるのが面白い。ページをめくるたび、死んだ人、生きてる人、彼らの顔が、たがいちがいに浮かび上がってくる。あとがきで親のようでさえあるという渡部氏、そして柄谷氏、蓮實氏、亡くなって『早稲田文学』のほんとの守護神となった平岡篤頼氏…。

不遜な言い方だが、ゼロ年代において構造主義的テキストクリティックは死んでいた。まったく流行っていない。いきなり引き合いに出して悪いが、宇野常寛氏が幅を利かせていることからもそれは明らか。で、そのような前世紀末の遺物を、なにまだまだ使えるしあれがいちばんよく切れるというように、ふるびた蔵の中から引っ張り出して、手入れもそこそこにブン回す。それを見て、なんだやっぱり昔のものはよくできてるじゃねえか、と周りの人間(読者)が感心する。それが『小説の設計図』と、20代後半以上のすれっからしの読者がつくるひとつの風景である。

テキスト分析をつかって解読されるのは5人の現代小説家の作品だが、川上弘美は刀をぶん回しすぎてやり過ぎ、ことば遊びの感じがある(怪談ミステリ的妙味はなかなかのものだが)。amazonではこの章を酷評して先は読んでない、というレビューもあった。つづく小川洋子も似たような観。だがこの二編は、はっきり書いていないけど、批判せんがための文章なのだ。愛がなきゃ真の批評は立ち現れんのだ。真骨頂は、ことばを使って伝える、読み取るという小説の機能、これの不可能性をうったえた、多和田葉子松浦理英子の章だろう。前田氏、いいや面倒くさい、市川氏が拠り所とする上記の思想、それを長いキャリアのなかで体現してきた二人の女性小説家。この二人について論じる市川氏のすがたの迷いのなさは美しい。松浦氏の『犬身』(朝日新聞社)を、氏はこう読む。ことばでだれかに「愛している」といっても、それはどのように愛しているか、実際はどうなのかまでは共有できない。つまり言った人間のあたまのなかの「愛している」を、聞き手の頭のなかの「愛している」に、そっくりそのまま転送することは、ことばではできない。だからひとは、「本当に愛している」とか、いろいろ形容詞とか副詞をつらねて、説得力を増さそうとする。だが、おなじことばの世界でやっていることだから、本質的に「愛している」も「本当に愛している」も、ちがいがない。

こうしたことばの不完全さ、いい加減さと、『犬身』において、語り手が、「犬のように」従順になってしまうんでなく、ほんとうに「犬」そのものにヘンゲしてしまうこと、それを松浦氏は対応させているのだと、前田氏は書く。ことばが直面する<実態と同一性をめぐる困難>を、犬のようになった人物を書くのでなく、犬そのものにしてしまうことで飛び越えること。その場所からことばを見つめること。『犬身』から前田氏が読み取った、シンプルだが明快な論旨は読者を興奮させ、おそらく、松浦氏を勇気づけたろう(クールな人だけれどこれに鼓舞されなきゃウソだ)。ほんの一部の評論だけがもつ、読んでいて大きく胸を張りたくなるようなマジックが、この論文にはあふれている。そういうマジックを、新奇で眼がチカチカするような手法でなく、前世紀的でいまや見向きもされなくなった、だが20世紀のおわりに、たくさんの読者、書き手が夢中になったフランス現代思想直系の構造主義的テキスト分析をつかって発現させていく、前田氏のその手つきが、自分には眩しく見える。西原理恵子論は若干の売文仕事くささ、中原昌也論は党派主義的所産かと思いきや、「点滅……」のタイトルの意味するものを精確に読み取っていて面白くはあるのだが、桜坂洋東浩紀『キャラクターズ』(新潮社)が分析のための道具として使われていて、さしたる意味もなく冗長になってしまっている点、あと「点滅」以外の中原氏の作品をどのように擁護するのかがまったく見えない点でそれほど面白くなかった。だが、出色の松浦論、これだけのために、本書を通読してよかったと思った。また、市川氏ほどの多読家、精読家ではまったくないものの、おなじような読書をたどってきた自分は、背中を押され、励まされるような気がした(なんだけっきょくてめえの現状肯定と浪花節じゃねえか、といささか唖然とする筆者...)。後味をすっきりさせるためじゃないが、一文ひいて措きます。

言葉を運用することがいかに空しい交換手段でしかなく、しかし言葉とともにしか私(たち)は語り語られることができない−そのような答えはむろん、はじまりからとうに決まっていたのかもしれない。ただ、それをひとつひとつ<絶望とともに>(ここ傍点)確かめる作業こそが『犬身』であったのだ。それは松浦理英子という小説家の、言葉への献身の痕跡でもある。
松浦理英子の…… 彼女はどうして、小説のなかで犬になるのか?」



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