きれぎれ文学考察7 ryuto taonといっしょに雑草を食べ、インタビューする


さいきんどうも、ryuto taonの様子がおかしい。ryuto taonというのは自分がやってるスピリチュアルダンスロックバンドryuto taonと抱擁家族http://www.myspace.com/hoyokazoku)のトラックメイカーのことである。この男むかしから、瞑想をたしなんだり、とつぜん老子の発言を引いてきたり、自給自足にあこがれるような発言をしていたが、さいきんそれがどうも、加速しているようなのだ(陋屋での彼いわく、<ラディカルというのは過激とか急進的ということではない。それは片面であって、本質というのがいちばん正しい。自分は本質的なところに近づいている>)。こないだもスタジオ練習がおわったあと、スタジオのラウンジで雑談をしていたら、「この二三か月は雑草を食べて生きている」「虫にも興味をもちはじめて、このまえバッタを食った」「クリシュナムルティという聖人がいて…」「人間を原子よりこまかく分解すると波になってしまう。ほかの物質もぜんぶ波。これを説明したのが超ひも理論だが、この考えはなんと実は、ブッダがたどりついた答えと一緒なんだよ!」などなど、目を輝かせて聴いたことも無いようなめずらしい話をする。自分もさいきんは整体や呼吸や保坂和志見田宗介や北山耕平やらの本でそういうのへの興味を強くしているところだったので、ふんふんと頷きつつ質疑応答していたら終電の時間になっちゃった。ということで、ryuto taonの思想と生活の核心に迫るために、自分は日をあらためて、都内私鉄沿線にある、彼の陋屋をたずねた。

駅まで迎えにきてもらった。宅まで15分あるく道すがらも、彼の視線は路傍の雑草に抜け目なく注がれている。その眼光は、まさにハンターのようだ。野草ハンターryuto taon。へいぜいスタジオの中では見られない彼の素顔がそこにはあった。

「これがナガミヒナゲシ。花がオレンジ色のやつ。この雑草はここ数年で急に増えて、いまではどこでも見られる。味はまだ食ってないからわかんないけど…」
「あれはアブラナ科のショカツサイ。諸葛孔明が広めたということからこの名前になったといわれている。味もクセがなくてうまいし、種からは油が取れるし、言うこと無いね。アブラナ科とキク科の雑草は、たいていなんでも食える。あ、キク科はハルジオンとかタンポポとかね」

歩いている間にも、つぎつぎ路上の草葉に関する知識が披瀝される。こんなにしゃべる男だったっけな? というほど饒舌で、表情も生き生きしている。しかし雑草にくわしいくせに、「じゃあ、あれは?」とランダムに聞いてみると、「おれは雑草はわかるけど、園芸種はしらん。人の手をくわえて育てるような植物はしらん」と急に素っ気ない。なんだ、やっぱり変人だ。問答しているうちに公園に入り込む。そこでまた表情が変わった。

ヒルガオはサツマイモの仲間だから、茎を切ると芋の匂いがして面白いね。味も甘みがあって、よく似てる」
「まあしかしきみ、ハマってるね」
「ここ三か月くらいで開眼したところ。いつも雑草図鑑をもって休日は歩き回ってるよ」

左手に『雑草図鑑』(正確には岩槻秀明『街でよく見かける 雑草や野草がよーくわかる本』秀和システム、2006)、右手にむしった雑草をもって休日の街を徘徊するryuto taon…。やがて家が見えてくる。庭付きの日本家屋。築40年弱。

本棚は、小説やマンガなどが収まったよくある学生的な本棚のほかに、スピリチュアル本があつまった区画、無農薬農業の本の区画がある。とてもラップトップミュージシャンの部屋じゃねえな、どこで音楽つくってるんだ。

サッシをあけて縁側に出て、庭を拝見する。長方形で40平米くらいだろうか。わりと広い。雑草ははしばしに群生していて、真ん中には整理された区画にはなっていないが畑があり、野菜がつくられている。縁側の下には発泡スチロールの箱のなかでイネが植えられている。しかしおどろいたのは、庭に出るなりブンブン無数の羽虫の羽音がしたこと。あわてて音のほうを向いたら、ミツバチの巣箱があってその周辺を数えきれないミツバチが飛び回っているのである。巣箱を攻撃しなければあぶなくないと言われるがしばらくビビりつづけながら、先に庭に出たtaonの、雑草紹介をまた聞くのであった。

「じゃあ採ってきた雑草を食べてみよう」

(以下編集中)

…草も食べおわったし、書棚の本を見せてもらいつつ雑談をした。以下がその記録である。

かちゃくちゃ(以下か) そもそもなんで雑草を?

ryuto taon(以下rt) 食べようと思って食べ始めたわけじゃないんだよね。畑に生えていたのが野菜だと思ったら雑草だった。そうしたら食えるじゃないかと。それからいろいろ食べてみようと興味がわいてきた。種類が知りたくなって、図鑑とかも買ってきた。さいしょは見分けがつかないからね。さいきんは雑草をたべる本もたくさん出てきている。みんなは野草とよぶけど、おれはあえて雑草ということばを使っているね。

(雑草を食べるのは、)老子無為自然ということばにも合っていると思うの。野菜は人間の手が加わっているけど、雑草には加わっていない。雑草を食べるというのは、人間本来のすがただったと思う訳。でも今の社会でそれをやると、変人だったり、過激だったりと思われるわけでしょ。
でもその辺の草をつんできて食べるって言うのは、日本でもほんの数十年前まではごくふつうだったと思うんだけど。スーパーの野菜を買ってきてたべるっていうのは、ほんの一部の、ここ数十年の都市生活者だけのことで。まあこれは後からつけた理屈でもあるけど。
野菜がダメとは言わないけれど、人間の手によって撒かれて、育てられた野菜でなく、野生化している、手の加えられていない雑草のほうが良いと思っている。

あと雑草というのは勝手に生えているわけだから、生命力が損なわれていない。農薬や化学肥料で育てられた作物は、たくさん食べないと満足しないけれど、雑草というのはすくない量で満足感をおぼえる。科学的にはミネラルが多いとかいえるかもしれないけど、よくわからない。ただ、体験的に、それを毎日つづけていたら、非常によろこびが出てきた。お金をつかわない嬉しさもあるかもしれないけど、生きてるのってこういうことだっていう、非常に本質的なよろこびだね。

人間は都市生活者はお金を出して食べ物を食べるのが当たり前になっている。でもほかの生き物はそんなことしない。人間はもともとはお金を払って食べ物をえるのでなく、自然の恵みをとってきて食べるのが当たり前だった。それが近代生活によって、人間が人工的につくったものを、人工的な観念によるお金というもので買って食べることになった。生き物のあり方とはかけ離れている。雑草を食べるというのはもっと、生き物本来のありかたに近いと、これは後から考えたことだけど、つよく感じたんだ。雑草を食べていると、ほかの生き物の命をいただいているという実感がある。お店やレストランで買った食べ物では実感しにくいけれど。理屈でなくて、直感として、非常に生き物としての充実感があるんだ。

か 昆虫もその延長というわけ?

rt 去年の夏、畑でキャベツを育てていたわけ。ところがキャベツにモンシロチョウの青虫がきた。これは取ったんだけど、つぎにまた虫が食った跡ができるようになった。よく見たらバッタの仕業だった。ふつうバッタはイネ科の細長い草を食べるのが多いんだけど、オンブバッタというのはイネ科でなく、広い葉っぱを食べるということが調べたら分かった。じゃあどうやったら守れるか考えたけど、単純に殺してしまうのは気が引けた。キャベツを育てて食べたいというのは、そもそも人間の都合であって、そのためにバッタを理由も無く殺すのは気が引けた。ならせめて、食べてやろうと。食べてやれば、無駄にならなくて、せめて浮かばれるのではと考えた。で、なんとか食えないかと方法をさがしていたら、昆虫食のひと(内山昭一氏 http://www.bekkoame.ne.jp/~s-uchi/musikui/musikui.html)のホームページにめぐりあったりしたんだけど。

そもそもおれは小さい頃、いなごの佃煮を食べたことがあったからバッタも問題ないと思った。それで10匹とか20匹とか捕まえて、フライパンで炒めて食べてみた。味はエビだね。昆虫とエビはおなじ仲間だから味も似てる。ただバッタは草を食べているから、エビの味プラス草の味がする。それから、チャーハンに混ぜて食べてみたりした。中華だしで味付けしたり。

これが面白いんだけど、フライパンで炒めると、バッタはまるまって、赤茶色にちかづいていく。ほんとにエビに似てるんだよ。雑学だけど、ラテン語でバッタやイナゴやザリガニをロクスタという。これがロブスターの語源でもあるわけ。ロクスタって元々は「曲がる」って意味があるの。

でも草は問題ないんだけど、昆虫は見た目が虫なんだよ。積極的に食いたくはないな、という抵抗感がある。だけどキャベツにバッタがいっぱいつくから仕方がない。だからそれ以外の昆虫は食っていなかった。バッタにも完全にまだ馴染んでないし。でまた春が来て、またキャベツにモンシロチョウの青虫がついた。だから今度は青虫を食べてみた。まだ二三週間前のことだけど。今までで二十匹くらい、茹でたり炒めたり。味はまだ小さいやつだからよく分からないけど、強いて言えばやっぱりキャベツの味だね。

まだ抵抗感があるけど、将来的には広げていきたいと思ってるの。雑草と無為自然のつながりと同じものが、昆虫にもあると思う。牛とか鳥とか豚を屠殺して食べるより、無為自然にちかい。それは家畜が人間によって育てられているということもあるけれど、人間は自分にちかい、ほ乳類を食べるのはよくないんじゃないかと思っている。人間に意識がちかいほど、食べるのはさけたほうがいいというのは、スピリチュアルやベジタリアンの、食生活の考え方みたいなんだけど。日本の神道でも四つ足のものを食うなとか…ここら辺は勉強不足でわからないけど。

昆虫は植物ではないけど、牛とか豚よりかは人間より遠い。人間が食べるものとしては無理がないというか…ただ都市生活化して昆虫を食べる文化が廃れてきているから、抵抗感があるのは否定できない。でも一万年前とかは、虫を食べていたと聞いている。アボリジニの人とか、東南アジアの人とかはまだ食文化として残っているけど。

か rtくんも奇しくもハマっている訳だけれど、本屋でも昆虫食の本をさいきんよく見かけます。何故はやってきていると思う?

rt ぼくの考えだけど、いま人間の食がおかしくなっているということは、みんな頭やあるいは体で、なんとなく考え始めているんだと思う。野菜でいえば有機野菜に関心が高まっているし、さらに進めば、雑草、あるいは昆虫への関心もそう。それと、日本は非常に自給率が低いと言われている。ちかい将来食糧難がくるかもしれない。そうしたときに、身近な野草や昆虫が食べれれば、こまらないんじゃないか。

いまの日本で食べられているものは、海外からすごい距離をかけて輸入している。そういうのはなんとなくおかしいんじゃないかと、無意識でみんな感じてるんじゃないか。距離だけじゃなくて、膨大な燃料や時間をかけて運んでいる。食べ物はほんらい、ほうっておけば腐敗する。ここでも人工的に手が加えられている。ほんらい必要のない手を加えられて、食べ物が輸入されている。人間というのは、ここ百年くらいで、自分の家のそばで作られたものだけを食べていた生活から、化石燃料をつかったり、まずしい国につくってもらったり、膨大な食料を輸入するようになった。

狂牛病もそうでしょ。牛がおなじ牛の肉骨粉を食べさせられていたわけでしょ。本来牛は草を食べている訳だから、自然の摂理にあきらかに反している。そうすると反動がくるんだよね。おなじような反動は、人間社会でもいたるところに起きているんじゃなかな。

か 無為自然ということばが出てきたけど、瞑想について聞きたいんだけど。

rt ふだんは感情とか観念が、頭の中で波立っているわけ。でも瞑想をするとすっきりして、静かな状態になる。それが自然の流れにちかい。日常生活のなかでは、欲望とか観念とかが渦巻いていて、流されてしまう。それは自然ではない。でもレイヴで無心に踊ったり、何かに無我夢中で打ち込んでいる時とかは、観念から離れて空というか、心が澄んだ状態になれる。

か 修行としての瞑想とお気楽なエクササイズとしてのそれがあると思うんだけど…

rt それは分ける必要はないと思う。ただ、瞑想をしようと思ってする瞑想というのは、ほんとうは自然から外れている。何かをしようと思ってそれをしてしまうのは、自然から反していることになって、良くない結果につながってるから。だからむしろ修行のほうが、修行しようという意志が入っている分、よくないのかもしれない。時宗には一遍の踊り念仏とかもあるし…

(そこまでくると、とつぜんふすまを開けて、タンクトップ姿の謎の女が飛び込んできた!)

タンクトップ姿の謎の女(以下タ) 瞑想を本格的にはじめて、見えるもののクリアー度が変わった。ハイビジョンに変わったみたい。自分の内臓の動きとか、骨の動きもよく見えるよ。あと人の毛穴とか産毛とかがよく見えるようになるよ。

か わわ、なんですか。瞑想のプロですか?

タ 駆け出しです。毎日やるようになったのはこのひと月。それまでは合宿みたいなのに行ってただけ。

か 瞑想について教えてください。

タ 自我が崩壊しそうになって、合宿にいったら、そういうものかと分かるようになったんです。小池龍之介http://iede.cc/)先生の座禅セッションです。瞑想に出会ったのは二年前かな。本気になったのはここ一か月。

か 具体的にどのようにするんですか。

タ 基本は、座禅を組んで目をつぶります。つぶり方は、二十秒から三十秒かけて、どのように視界が変化しているのか、ものすごく注意しながら目を閉じていきます。それで腰骨から背骨を一つ一つ上へ上がっていくように、整えていきます。でも特に整えようと意識しなくても、いまその骨がどういう風になっているか、一個ずつゆっくり観ていけば、自然と体がぱきっぱきっと本来あるべき位置になっていきます。一回じゃなんないけどね。そのあいだに、内臓が悪かったりすると、それをかばって不自然な姿勢にふだんからなっているので、意識することで悪いところが痛みが出たりします。だけれどそれで体がそこが悪いことを意識するから、ゆっくりとそこが整っていくんです。これはムリヤリいい姿勢をするというのではなくて、悪いところをじっくり観ていくという感じ。
規則正しい生活をしていれば、そうはなりません。ここで規則正しいというのは、臓器に無駄な負担をかけないような生活のこと。よく噛むとか、食べ過ぎないとか、飲み過ぎないとか。

それで首の後ろまで整えたら、呼吸を集中します。鼻から入っておなかまで行って、意識できる過程をぜんぶ意識する。吐くときはおなかから鼻まで、線を辿って出て行くんだけど、それをずっと追う。ぜったいに意識がそれたり、おなかのなかの動きが分からなかったりするんだけど、あきらめずに追う。考えごとにそれたりするのを絶つ。それてるのに気付いたら、また引き戻す。

いまここで自分の体がどういう呼吸であるか知るということと、ぶれない集中力をつける、つまり集中力の筋トレみたいな、両方の意味があります。それをやっていると、自分をありのままに見る力もついてくる。基礎力のトレーニングですね、準備段階。

それが出来てきているかなと思ったら、鼻先から鼻の奥へいって、壁にぶち当たって、下へ息が降りてくるでしょ、その鼻先から、ガツンとぶつかるところまでの呼吸の勢い、温かさを観察します。それがまたきっちり見られるなというところまできたら、鼻先の一点だけに集中します。鼻の穴のすぐ下あたりかな。鼻先で呼吸の入って出てを見るんだけど、最初はそこが面になっているんだけど、どんどん空気の粒子にちかづけて、点にまで狭めていきます。このあいだも、いろいろ意識が飛んでしまうんだけど(これを仏教で迷いの業といいます)、飛ばされてもまた鼻の下に意識を戻す。それで針の先くらいまでに狭められるように努力する。必ず業は出てくるものだけど、それに対してイライラしたり(怒りの業です)、新たなリアクションはしない。

か (圧倒されながら)そこまでは何分くらいかかるものですか?

タ 集中してれば10分でも行けるときもあるし、一日ダメなときもあります。

か いま話しているのは、瞑想中のことですか、瞑想していないときの話ですか?

タ とくべつ目をつぶって、呼吸に意識をして、という風に瞑想をしていなくても、いつも瞑想中なのです。日常生活をしているときも、たとえばお茶を飲もうとして、湯のみを手に取るときも、湯のみの感触とか、すべてを意識してとらえる。自分がいまこの瞬間に何をしているかをきちんと捉える(観察する)こと。それも瞑想なんです。

か それが瞑想になるんですか?

タ あるのはこの瞬間しかないんです。あとは、自分のなかの記憶と概念。人間が作り出した、まとまっちゃうプログラムなんですよね。そこから抜け出して、自由になるということ。きちんと今に留まっていないときは、すべて頭のなかに留まって、ぜんぶ概念なんです。現実に生きていないというか。それに気付いた瞬間、自由になれる。生活していると心がつねに捉えてくる、あれ欲しいな、とか、鼻がかゆいなとか、お茶を手に取ろうとか、そういう衝動とか原因をいちいちきちんと意識することなんです。それをすることで、頭のなかの概念に逃げ込まないで、わずかでも、現実にいる瞬間がつくれるんです。

rt 瞑想とは思考とか観念とかから自由になることをいうの。だから、座禅を組む瞑想もあれば、踊るのもある。

タ 瞑想っていうのは自由になれていないということを知ることだよね。
きちんと念を捉えていくと、歩いていても足下の摩擦力がなくなっていくんです。あまり力まないで歩けるというか。

だいじなのは、何百万分の一も、自分に起きていることを意識できていないということです。風が体にきていても、耳の後ろにはきていないし、顔の部分によっても強さがちがう。そういうことをひとつにまとめて、ざっくり「風がきているな」と解釈している。ひとつひとつは全然捉えられていないんですよね、それを意識することだと思います。

か 目を閉じてすわる瞑想で心や体が解放されるというのは分かるんですが、生活のなかで一挙手一投足や意識の動きに気を配り続けること、これが身体の解放になるというのが、よく分からないんですけれど。

タ、そしてrt 心はいろいろな言葉や記憶やイメージを、無意識にたくさん拾ってしまう。そのせいで、ほんらい必要のない思考のパターン、感覚が生まれてしまう。そして、日常生活はそういったもので埋め尽くされている。しかし、瞑想をつづけることで、それがひとつひとつチェックできて、取り除いていくことができる。それが快適な生活につながる、ということです。だから、瞑想をすることで、社会生活がきちんと遅れなくなるとか、会社員としてダメになってしまうとか、そういうことはない。

タ まあ、くわしく知りたければ、初期仏教教典を読むことだね。(歯ぶらしを洗いながら)もう寝るわ。

か よくわかりました。これから瞑想を実践していきたいと思います。今日は長い時間、ありがとうございました。