HALCALI『ENDLESS NIGHT』、夜の自然主義

あそこであの返しは正直ない
真夜中でピンの反省会
ツッコミ不在の自問自答
オチも返りもなくただ悶々
「やっぱ独りなんだ」と気づいたり
「いや繋がってるかも」と期待
行ったり 来たり 繰り返し
きっと無駄じゃないが果てしない
HALCALI「ENDLESS NIGHT」(feat.Bose from Schadaraparr)

ハルカリの「ENDLESS NIGHT」(2010)は、ハルカリスチャダラパーのボーズによる2MCなのに、曲の頭から終わりまで、まったく両者の対話、相互作用がない。どういうことか。2010年現在、世にあふれかえる「○○フィーチャリング△」という形式で生産されている産業R&B、ヒップホップは、女性ボーカルが愛をうたい、ほんらい間奏となる部分で、間奏をつくるとカラオケ向きではないからというアーキテクチャ的理由で挿入されているとしか思えない男性MCがむりにしゃがれた感じ、男性的色気の誤解に基づいたボーカリゼーションによるラップで慌ててカットインして、ひとしきり女性の気持ちに応答することばを吐き出し、間奏がおわる気配を感じるなり慌てて退場する、というものが非常に多い。そこで女性ボーカルと男性MCが曲中で演じる設定は、とうぜん大体が恋仲の二人というもので、けっきょくやっていることは、「飲み過ぎたのはあなたのせいよ〜」や「今日も渋谷で、五っ時〜」と本質的にまったく変わらない。否、退化してさえいる。

一方、さる3月10日にオンエアされた「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」(TBSラジオ)内で組まれたBARBEE BOYS特集で、ゲスト講師の宮崎吐夢は、バービーボーイズが日本語ロックにもたらした革命として、男女ツインボーカルの曲の中での対話、ぶつかり合いを指摘した(http://www.tbsradio.jp/utamaru/2010/03/)。四半世紀も前にリーダーのイマサこといまみちともたかが創出した技術革新は今でも古びておらず、強いインパクトがある。それがどういうことか、どのように新しかったかを知るには、彼らの「負けるもんか」(1986年)で杏子とKONTAが繰り広げる狐と狸の化かし合いを見るのが最も早い。

曲中でめくるめく展開していく男女の掛け合い、やりとりは現在進行形であり、計算と駆け引きまでも巧みに描きこまれた手に汗握ることばの応酬は、クライヴ・カッスラーの国際陰謀ものを読むような緊張すら孕む(おれ読んだことないけど)。ツインボーカルという言葉が生まれた瞬間だったろう。それまでの歌謡曲、ニューミュージックにおいては男女がマイクを手に取りステージに立てばそれはデュエットであり、濃密な対話はなかった。そこに多少の駆け引きめいたやりとりはあれど、それはほとんど合意(セックスの)に基づいて進んでいく(セックスに)儀礼的な駆け引き(セックスのための)でしかなかった。バービーボーイズがロックに男女のリアルなやりとりを載せ、そのやりとりの激越さがロックミュージック自体に推進力を与える。このポリフォニーは実験的でありながら成功した。そこから20年。ロックミュージックからダンスミュージックへ畑を移して、「エンドレスナイト」が実現したのはつぎの段階においての革命ではないか。

エンドレスナイト」はハルカリ(この曲での基本的役割は一緒なので二人一組とする)、BOSEと男女のMCが交互にラップをやるけれど、そこには完全に対話がない。なんのクロスオーバー、影響関係もない。ただ夜の闇の中で孤独な<ピンの反省会>が開かれているだけ。おなじ歌のなかにありながら、MCは交差しないし、孤立している。空間的にはちがう場所でかわされている言葉が、たまたまおなじ曲のなかに同居しているだけ。

それはもちろんたまたまそうなったのではなくて、考えがあってのことで、エンドレスナイトはたぶん20代後半〜30代あたまくらいと思われる男女が、刹那的な飲み会、クラビングなどでウィークエンドを費やしながらも、本質的には快癒しきらないさびしさにあるとき直面してしまう。その際の自問自答をうたっている。この設定がきわめて現在的で革新的だ。ハルカリとボーズは、たぶん、2時間くらい前まで一緒に飲み屋かクラブにいて、一応楽しくはしゃいで解散した。家に帰ってきてからの自問自答の無限ループ感がそのまま表現されているから、一字一字が、刺さる。

この曲はあまりプロモーションをしなかったのか? ひっそりと(失礼!)1月に発売され、自分はそれに気付かなかった。3月のある時、DOMMUNEを家で流しっぱなしにしていたら日付が変わったころ(つまりカーテンコールの曲として)、とつぜんこの曲がかかって、自分は入眠まえだというのに度肝を抜かれ、月末にタワレコ3倍ポイントの日に、慌てて(?)CDを買った。

それから朝聴いても昼聴いても、「エンドレスナイト」は飽きないし、テンポが遅めでシンベもボーカルも暗いのに不思議な高揚感をもたらしてくれる。でもやっぱり、この曲は夜がいい。金曜から日曜にかけて週末の夜、どこにだって行けるのにどこにも行けないという閉塞感、言葉はいくらでも交わし合えるのに判り合えた気持ちにならない、いやもしなったってそれは何にもならないという孤絶感は、だれしもが親しみを持つ感覚だろう。携帯もmixiもあるしツイッターiPhoneまで出てきた。しかし満ちたらなさは今もって深まるばかりだし昔の人はどう(対処)してたのコレ?という感じ。そういう近いのにますます遠い感じというのが、2010年にある人たちで共有されているとして、「エンドレスナイト」はそれを巧みなリリックですくい取った。しかも、男女MCなのにそれぞれのお部屋の独白だからまったく交差しない、影響を与えあわない、という演出で。この文学的発明が、スローテンポのダンスミュージックに推進力を与えている。橋本治がこの10年で急速に習熟し、『巡礼』、『橋』で(『新潮』4月号掲載「リア家の人々」未見。読めるか!『ピストルズ』もあれもこれもあるのに…)自家薬籠中のものとした自然主義日本文壇史的な文脈でない、ガチな自然主義)、チェルフィッチュ岡田利規が「3月の五日間」で達成し、以後「フリータイム」「わたしたちは無傷な別人であるのか?」で微妙に距離をおき始めている「超リアルな日本語」と称される自然主義が同一のものであるとして、ハルカリの「エンドレスナイト」は正しくこの系譜上にある作品だ(この中には、この2年半で向井秀徳が達成した、ZAZEN BOYSエレクトロロック三部作「ASOBI」「I don't wanna be with you」「City dreaming」も含まれるし、ハルカリが描出した世界ととても近いが、そこはまた機会があれば)。

夜聴くのががいい、の話をしていたんだった。寂寥の奴隷になって、手持無沙汰で家でクラビングをする、クラバーではない視聴者が(「も」?)あつまるのがDOMMUNEだったとして、そこのテッペン越えた時間で「エンドレスナイト」がプレイされたというのが象徴的で、面白い。プロデュースのラムライダー、作詞にクレジットがあるM.Koshimaさん、HALCALIに頭を垂れる。

#M.Koshimaは、作詞クレジットで使われる、BOSEの変名。ご指摘ありがとうございます。

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