まがじなりあ・あちらこちら 日本の夏、おれと原発の夏


雑誌はちょっとしたところに大事なことが書いてあったりするので気が抜けない。『週刊文春』9月1日号の和田誠による表紙画は、中村とうようの死を悼んで、『ニュー・ミュージック・マガジン』創刊号と、和田氏が装丁をした中村の著書二冊のイラストレーションになっている。この号のコラム(「本音を申せば」)で、小林信彦も中村との一度だけのやりとりをごくみじかく紹介している。コラムのおわりの畳みかけるようなことばに打たれた。

 一九四五(昭和二十年)二月のヤルタ会談のころ、日本が両手を上げれば、歴史は大きく変わっただろう。
 三月十日の下町大空襲、五月二十五日の山の手大空襲もなく、東京以外の都市や広島、長崎の核攻撃もなかった。NHKは<日本人はなぜ戦争へ向かったのか>といったドキュメンタリーを放送しているが、国民を戦争に駆り立てたのはほかならぬNHKのニュースであり、扇情的な大新聞でもあった。ぼくはこのころの大新聞の縮刷版を持っているが、唖然とする内容である。
 国民は驚くほど指導者を疑わなかった。(中略)
 懲りるということがない。

 フクシマがああいう状態になっているのに、北海道の高橋はるみ知事が泊村の泊3号機の再開を容認したというのは、こうした<疑わない>習慣とつながっている。この知事は元経産省官僚で、資金管理団体の会長は元北海道電力会長ときている。


高橋知事のくだりはおそらく、前週の文春か新潮の告発記事を読んでのものだろう(追記・『FRIDAY』でした)。

五者交代制の連載「私の読書日記」は、この号では立花隆が書いている。冒頭で、原爆資料館を訪ねた際に手にした『なみだのファインダー 広島原爆被災カメラマン 松重美人(http://www.peace-museum.org/documentcenter/groundzero/groundZ-3.htm)の1945・8・6の記録』(ぎょうせい)を紹介している。

松重氏は中国新聞のカメラマン。爆心から二・七キロの自宅で被爆したが、一刻も早く会社に行こうとカメラ片手に急ぐ途中で、あの写真(かちゃくちゃ注・原爆投下直後の爆心地付近を撮った唯一の写真「御幸橋西詰派出所付近」)を撮った。(中略)この日松重氏は、合計五回しかシャッターを押していない。爆心近くで、市電一車輛分の乗客が、座席に坐った人は坐ったまま、つり革を持った人は持ったまま、みんな即死している場面に出会ったが、「あまりむごすぎて」ついにシャッターを切れなかった。ヒロシマナガサキを通じて、原爆投下当日の写真は、結局、その五枚しかない。


しかし立花氏は原爆の脅威、もたらすむごたらしさを紹介しながら脱原発に持っていくような文章へつなげていくわけではない。<客観的にいって、原発と原爆は全くの別物である。>と言ったうえで、原子力の善についても目を向けるとの立場を示す。<核をすべてアプリオリに邪悪なものと決めつける、「脱原発以外に道なし」論者が日本の多数派になりつつあるようだ>として、クロード・アレグレ、ドミニク・ド・モンヴァロン『フランスからの提言 原発はほんとうに危険か?』(原書房)を反証として提示する。

 核をアプリオリに邪悪なもの視する人々は、核は人間にコントロール不可能なものと思いこんでいる。(中略)しかしフクシマで起きたことは、第一世代第二世代の古い原発マグニチュード9.0という史上未曾有の災害が襲いかかったときに起きたことで、現代の最先端の原発(いま第三世代半まできている)では決して起りえないことがすぐわかる。いまの原発では、フクシマの悲劇の最大のもとになった水素爆発が絶対に起らない(水素が発生したとたん触媒によって酸素と結合させられ、H2Oになってしまう)。フクシマの悲劇をもたらした全電源喪失メルトダウンも絶対起らない(電源なしでも冷却継続)。いまの日本の原発論議は、驚くほど時代遅れの内容になっている。


立花氏の知見は自分は知らないものだったが、納得いかない、丸めこまれてはいけないものを感じる。第三世代半のピカピカの原発の真下から9.0が突き上げてきて、間髪いれず防波堤をかるがる飛び越える津波原発を飲み込んだとして、原発から放射性物質が噴き出さないか、あるいは噴き出してしまうのか、それは措くとして、この問題は立花氏が注目するようなテクノロジーをめぐるものに限らないからだ。原発を推進した人々と助けた人々、それを看過したわれわれ、事件後の情報の伝え方と対応、それへの追及といった、組織と個人、社会と利権という、ひろい視点でみるべきものであり、そこに一番の病根がある。小林氏が3.11以後、繰り返しコラムで、フクシマをめぐる現在と対比させているのは、旧日本軍とそこにぶら下がる大本営発表、それに振り回される国民という戦時下日本社会だ。原発が安全ならそれでよいのか? 原発を誘致する人、売り込む人、利益を得る人、批判する人、無関係な人、ぜんぶひっくるめて原発問題なのだ。主張として頷くところもあるが、狭窄的に感じる。

先月15日、秋葉原クラブグッドマンの「東京BOREDOM×FUKUSHIMA!」(http://www4.atword.jp/tokyoboredom/)で見たRUMI(http://www.sanagi.jp/)のパフォーマンス(日本にほんとうに根の張ったレベルミュージックが生まれたのだという実感)、先週、友人と飲んだ時の「原発はカタストロフかそうでないか?」での口論(というかおれがブチっときただけ)など絡めて書こうと思ったがつながらなかった。友人(名は秘すがいつも出てくる人)の言っていた、放射性物質は有限で、冷却など対処をしなければ半永久的に放出され続けるというものではなく、長いか短いかは分からないが、そのうちに勝手に出尽くして止まるものである、という話は常識なのですか? おれはたくさん勉強をしているわけではないが、どちらかと言えば立花氏のいう<核をすべてアプリオリに邪悪なものと決めつける>人間なので、この話はちょっとおどろいた、と同時に、ホントナノカナ?と思った。