告知とは人生なのか?
吉田豪の『サブカルスーパースター鬱伝』(徳間書店)は冒頭のリリー・フランキーのインタビューからシビれた。この本は、サブカルで名を成した男性は、40前後で鬱になる。著者も、これからそこに差し掛かってくるので、先輩にエピソードを聞いて、原因と対策を考えようという主題を持っている。リリー氏は吉田氏の師匠的な存在であるが、その師匠が本人をまえに、とつとつと吉田豪論を語るのだ。そこにまず、シビれた。
でもこの本でいちばん忘れられないのは、意外にも(?)唐沢俊一のインタビューで、手元になくて引用できないが、そこには来るべき死のイメージが立ち込めていた。40を過ぎると、本を買っても一生で読める量がどれほどか、計算がついてしまう。目も悪くなる。体力も、記憶も劣ってくる…。そんな話。ほかの人たちが体力の減少や運動不足、私生活での女性問題のこじれなどを挙げるなか、最も静的で、対応不能なものを前にしているという感じがした(BGMはドローン音かリンチのサントラ的なもの)。
都築響一氏の『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(晶文社、http://www.shobunsha.co.jp/tsuzuki1.html)のあとがきの文章が、おれの後ろのほうから聞こえてきた。
毎日いちどは本屋に寄らないと気がすまなくて、給料が出るたびに紙袋を持つ指がちぎれるほど買い込んで、一生かかっても読み切れないほどの山を部屋中に築いて。妻子には迷惑がられ、知識は増えても貯金は減るいっぽうで、女にはモテず、視力も精力も減退するばかり……(中略)
そういう本バカにささえられて、僕は生きている。(中略)それでも売れない本を作り続けていられるのは、1億2000万人のうちの数千人(数万ですらなく)の、僕と同じぐらいバカな人たちが、売れない本を買ってくれるからだ。
都築さんはポジティブな文脈で書いているが、裏から読めば暗い話である。ちなみに『鬱伝』は、『週刊プレイボーイ』や『テレビブロス』で特集が組まれたが、そこではさっき書いた、運動不足や私生活での女性問題のこじれなどが目立って紹介されていた気がする。これは現物を買い損ねたので、印象ですが。
自分はもちろん文化人でも、その周辺で生計を立てている者でもないが、読書を好む者ではあるし、第一、同じ男として、他人ごとではないところもある。だいたい、救いがないではないか(特に唐沢氏の話)。そんな中、買ってきたばかりの根本敬『タバントーク』(青林工藝社)に、ある文章を見つけた。清水おさむ『美しい人生』(同社,2004)の解説文である(根本氏のサイトでも読めます http://www011.upp.so-net.ne.jp/TOKUSYUMANGA/text/genre114.htm)。
才能と身の丈に合った処世術さえあれば、二十代から三十代前半ぐらいまでは、はっきり言って深く考えなくても、それこそ勢いだけでできるんだな。自分のことを振り返ってもそう思う。でも三十代後半あたりからまず自分自身の体の変化っていうかさ、それこそ見た目若かったりすると自分を誤魔化してきたのが、もうさすがに誤魔化しは利かなくなってくるんだ。で、四十代になると、否が応でも(ママ)人間年をとって死ぬんだな、って意識が実感として頭の中というか体全体に入ってくるんだよ。で、ちょうどそういう時期にさ、自分自身のマンネリ感じゃないけど、そういうものを強く感じることと重なってくるんだよな。(中略)で、ここからがキツくなってくるから、その人の真意を問われるのはある程度キャリアを持ってからのことなんだよな。
「清水さんは奇跡のマンガ家」
ではどうすればよいか? ここで根本氏は遠藤賢司を出してくる。エンケンは弾き語りをずっと続けてきたが、あるときエレキギターを持ってバンドを結成する。それはエンケンが42歳の時のことだった。
多分、四十を過ぎてそれこそ男の更年期的心理に入るそんな状況の時にさ、このままじゃ駄目になる。そんな危機感を感じたんだろうな。
エンケンさんはああいう性格だから、それを跳ねのけるためには、ってトリオの形を取ったんだと思うよ。それも自分がリードギターというポジションをとってね。それまではリードギターのパートはそれこそ他のギター上手い奴に任せればよかったんだけど、それをいきなり自分がエレキ持ってトリオをやるんだから、うっかり手なんか抜けないわけだよ。自分を極限まで追いつめてどこまでやれるか、という挑戦を。そういうことだったんだろうな、って思うよな、自分も当時のエンケンさんの歳を通過してみて。
やっぱりどこかで自分を突き詰めて、自分に決着を付けなきゃ前に進めない、って時期があるんだよ。それは勢いだけで乗り越えられる若い時期とは違う、もっとキツイ決着なんだよな。
(同前)
自分は熱狂的な根本ファンだなんて言ったら、ほんとのファンの方から怒られると恐れる程度の根本ファンだけど、そんな自分であっても、ここに、あるシンクロニシティを、つまり一つの答え、いや、真理を読み取ったのである。
今月、ZAZEN BOYSの4年ぶり5枚目のアルバム『すとーりーず』が出た。向井秀徳の面白いところも、似ている。常にストイックな挑戦をしている。それを高い緊張度のなかで、長い期間に亘って続けている。何かを聴いて刺激を受けてはセッションし、着想の断片を拾いながら、飽きずセッションする。熱量を保つためには、大事なものをぶっ壊し、解体し、ゼロから組み直す、そういうことも、平気でやる。その結果、バンドはあたらしい達成を刻むことができる。
おれが言っているのは、音楽性でなく、精神論ではないか? ”イチローに学ぶ○○”みたいな、成功哲学のたぐいではないか? そんな風に言われてしまうだろうか。考えすぎか? ともあれ、そういう本人の姿勢と信条が滲み出してくるから、向井さんの書くもの、話す言葉に、注目するのである。
ザゼンボーイズは今年に入って早々、新作に向けて本格的な制作を開始した。 毎度のことであるが、リフを中心に形を作って行くセッションを幾度も重ね、アレンジの試行錯誤を繰り返し、アンサンブルを強化するための反復を行った。
我々の自負とするトコロの真骨頂である、リフの音塊とバンド・アンサンブルにこだわり、コード、リズム、旋律がバラバラでありながら、整然、一体化している音像を目指した。
オーネット・コールマンが提唱した『ハーモロディック理論』を勝手に解釈し、「よく分からんが、つまりこういうコトやろ。オレにとって、とてつもなくポッ プな音ということや。オレにとって、というのが非常に大事なトコロなわけだが」と挑み、結果、ロック・バンド、ザゼンボーイズの極めを見せた!
オノレの歌詞については、これまで以上に奇妙かつシンプルになっている気配がする。たとえば『ポテトサラダ』はポテサラが食いたい、というだけの歌であり、『天狗』は、いつか見た風景、妄想、そして今眼前にある事実現実をマゼマゼにしている歌である。
基本は変わっていまい。変わる変わらんは、どうであれ、どうだっていい。
※今回の新譜の販売にあたっての向井氏のコメント。
『週刊文春』には向井秀徳の熱心なファンがいるんだろう。リリースのタイミングでかならず本人を登場させる。9月6日号の「この人のスケジュール帳」にも三人目で登場していた。
「(前略)前作『ZAZEN BOYS4』にはコンピューターの打ち込みで作った楽曲が多かったのですが、そういった曲もバンドとして演奏し続けるうちに、どんどん肉体的なものになっていった。今なら、目標としているバンドサウンド―一見楽器がバラバラに鳴っているようでまとまりがあるロックを実現できると思い、今作の製作を始めました」
「歌詞は思いつきに近いんです(笑)。言葉の意味を重要視するよりも、耳に残るフレーズを繰り返すことで、リスナーの想像力に訴えかけたい。加えて、一瞬一瞬の錯綜した感情や衝動をそのまま音楽にすることにこだわりました」
amazonのレビューでは、ふわふわ男という方の文章(「ZAZENなう」)が好きだ。いま言ったようなことをふまえている。
先だって公開されていたポテトサラダを聴いた時から、良い意味での?があったのだが、このアルバムを通して聴くことで、向井さんが、ZAZEN BOYSが今こういうところにいるのだな、というのが一貫してガッツリ感じられ、とても痺れる。
今までの作品のどの要素を抽出して引っ張りあげた、とかいうことではなく、「3」での脱構築的なバンドサウンドや「4」の打ち込みサウンドを経過しての、今のZAZENの純度100%の音塊。
ZAZEN BOYSのバンドとしてのポテンシャルが最大に引き出されているのはもちろんのこと、録音物として一番ZAZENの“生”感を感じられるアルバムだと思う。
もう圧倒的にビート、ビート、ビートで畳みかけられる故、前作のasobiやsabakuでのスキマの心地よさというか、浮遊感というか、音に漂っていたセンチメンタルというか、そういった要素はあまり今作では見受けられないかもしれないが、もうただ脳内を掻き毟ってくれる感覚があまりに突出しているので、この骨太一直線のサウンドの中にどのような淡いがあるのか、聴き手はそれをむしろ探すようになるのかもしれない。サウンドと同時に言葉にも変化が見受けられ、それはもう歌詞というより、単語レベルにまで感情のインプットを推し進めたような、暗号に近い言葉の羅列(俳句のような)である。アブラゼミがミンミンミンと鳴く商店街や、電線にぶらさがった紫色の天狗などは、なるほど向井さんの世界観として聴き手はすんなり入っていけるだろうが、ポテトサラダやあるまじろ、電球、ハリネズミやサンドペーパーといった半ば放り投げられたような単語に、われわれは何を思うのか??
しかし不思議なもので、こういう詩情をほとんど感じさせない言葉も、このビートにのせられ反復されると、何だろう??とこちらの無意識を焚きつけてくる。凄いなぁと同時に何だろう??というのが結局のところ素直な今の感想だが、この違和感があの快感への入り口なんだろうなぁというのは、今までのZAZENを聴き続けた経験からくる、絶対的な期待である
あした、リキッドルームで見てくる。想像を超える演奏に、慌てて宇都宮や水戸のチケットも、申し込んでしまったりして。
ここで紹介するような、無数の声や音楽に励まされて、私どもも私どもなりの生活や、表現というものを追求するものである。たえず過去に拘泥しながら自分を更新するバンド、ryuto taonと抱擁家族の久しぶりのライブが金曜日に行われます。
Impulsus friday vol.4
日程 9月28日(金)
開演 22時(予定) ※オールナイトイベント
共演 東京タイガース / タカユキと牛 【DJ】duncam / cogolo / jintatsuno / silicone cats / yoshi
場所 高円寺クラブミッションズ(03-5888-5605)
料金 \2.000 with 2drink
行き方 JR高円寺駅北口を右折(新宿・中野方面)
↓
線路沿いを300mくらい歩く
↓
右手に高円寺Club Mission's
http://www.live-missions.com/
私どもの出演は23時から。バンドの一組目です。オールナイトイベントですが、少ししんどいという方は、みじかい時間だけでもぜひご参集ください。
今回は、いままでの即興の中から作ってきた歌詞をある程度ベースにしつつ、そこから即興で逸脱していく、新しい方法でやってみます。つまりこれが我々の、「でもやるんだよ!」である。