片岡義男『日本語と英語 その違いを楽しむ』(NHK出版新書)読書メモ

読書人マストの本、というのがある。所属している趣味や専門の分化を超えて、これはマスト、というのが。片岡義男が97年、99年に相次いでドロップした、日本語の外へ、日本語で生きるとは、の二冊は、突然のリリースだったし、著者の作風を、それ自体読まずにそれまでなんとなく理解した風でいた人には、当時たいそうおどろかれた。と同時に、そういう広範囲にひろう読書人の間では、即座にマスト本となった。しかし、自分はそれを、15年、読まずに部屋で塩漬けにしてきた。
たぶんそこで出てきた著者の考えが、この手元の新書では熟成されている。流れ星は何千年前の光だと、市井の天文学者柳下毅一郎さんはこの前自分に、岬の防波堤で、教えてくれたっけ。昔の本を読む機会を逸したまま積んでおいて、上澄みをすくったような新書で浚うパターンは、いまやよくある。しかしこの新書版はたぶん、上澄みなんかじゃないのだ。徹頭徹尾濃縮版なのだ。しかも、進化した考えが発展系となりかつ、平易に著されているのだ。積ん読が部屋のどこのあたりにあるかぐらいしか、判ってない自分にも、それはわかる。それくらい、凄みのある新書だ。ここに繰り返し、片岡氏が手元のインデックスカードをつれづれに引き出すというカジュアルな形式で書かれているのは、きっと一つのことだ。言語が人間の思考や国民性を規定する、ということだ。こんな残酷なことはあるだろうか? 若いときに、批評空間や講談社学術文庫などで柄谷行人に傾倒した人や、批評や先端の脳科学や、シンプルな哲学が好きな人なら、何事もなく読み進めてしまうかもしれない。しかしそうでない、感受性の高い人は、この本を読んだときに天と地がひっくり返るような衝撃を受けるかもしれない。そしてそのときからその人は、批評の世界の入り口に立つ。若くない自分は、新書版一冊で自分の中身がグラグラするようなインパクトを感じられるということに喜びを感じるし、そこでぜんぶを終わらせてはいけないという、それも若いときに感じていたグラグラを思い出して、うれしくなる。