ナボコフみたいな冨田勲


このごろ急に読んだふり、観たフリ、聴いたフリをしてきたものに挑戦している。大島渚の追悼特集上映も、ヴェーラと新文芸座に(自分にしては)繁く通ったし、相米慎二の特集もちょこちょこ行きました。いま読んでるのはホーガンの『星を継ぐもの』と竹中労だし、パーラメントファンカデリックのアルバムも借りて聴き始めてる…。いやはや、恥ずかしいね、でもきっと、そんなお年頃! 実はさっき、外付けハードディスクを高いところから落として(床に置けないから高いところに置いていた)昇天させてしまって、戻らないデータはどれなのか、あとiTunesやら何やら、どう整理したら不便がなくなるか、リッピングをしながら、ひどい作業を続けている。そんないまのBGMは、これも聴いていなかった、冨田勲の『月の光』だ!オリジナルは1974年、ドビュッシーをぜんぶモーグで演奏しているやつです。これは買わないとダメだ。レンタルではダメだ…。

冨田氏のことばはナボコフみたいで面白い。

もともとぼくは以前より音を変調するエフェクター類に興味を持っていた。当時はなかなか手に入らなかったイギリスのボックス製のファズやフェンダーギブソンギターアンプについているトーンコントロールなどだが、ひときわ興味を引いたのは日本製のエーストーンの二重ボリュームによるトーンコントロールで、二つのボリュームどうしの兼ね合いで、モーグで作った鋼鉄線のようなイメージの音を通すと、異様な輝きを放つ瞬間を偶然見つけることができた。それは双方ともボリュームのわずか0.3ミリぐらいの微妙な幅のところ(アナログなので探すには容易ではない)に存在し、時間が経つとわずかな温度差の抵抗値の変化でどこかへ消えてしまうので、輝く瞬間を見つけたら、すぐに、ご機嫌の変わらないうちに「月の光」のメロディーの盛り上がる部分に使用した。

ぼくは、映像は存在しなくても、脳の視覚のエリアにも及ぶ描き方ができるモーグの威力を感じた。
上ふたつはいずれも『月の光』アルティメイトエディション2012年のブックレットより。


冨田氏は40年前、共感覚に似た感覚をつかって、1000万もかけて個人輸入した大きなハコと格闘しながら、『月の光』を彫塑していったのではないか。音にも色彩があり、においがあり、形がある。当時の冨田氏の孤独な格闘と、氏の脳みそで起こっていた創造の閃きを想像し、ロマンを感じながらパソコンを直してます。