日本の笑いは異常発展しているのだろうか? 国民の叔母・清水ミチコの『ババとロック』 in 日本武道館


「国民の叔母・清水ミチコの『ババとロック』 in 日本武道館」。

年末、大きなイベント施設といえば、賑やかなライブや何かで埋まっているのが当たり前だが、この日の武道館、何かの事情でおさえていたところがキャンセルを出したようで、「かわりに何かやりませんか?」といわれてこのイベントが実現したという。清水さんの積極的なファンではないが清水さんのことが好きだという人は少なくないだろう。自分もそうだ。この人は爬虫類顔なのがいい。爬虫類顔が好きだ。書いてなかったっけ。ともかく絶妙な塩梅のタレントさんである。しかしそれだけでは足を運ばない。去年の矢野顕子のさとがえるコンサートツアーのインパクトが大きかったからだ。50音順でマシンガンのようにやる応援物まねもすごかったが、最も敬愛するミュージシャンの矢野さんといっしょのステージで、「ひとつだけ」を連弾でやって、翌年(ことし)『矢野顕子忌野清志郎を歌う』が発売されるということもあり、清志郎とのデュエットバージョンで披露したその物まねは、神々しいものがあった。

だからまた足を運んだのだ。それに、年末にこういうものを見に行くというのが、大人の楽しみみたいで、良いでしょう? ロックフェスでワイワイやるのもいいけど(あとこういう企画はできるだけ見たいと思っているのだ。http://d.hatena.ne.jp/breaststroking/20080802#p1)。

スチャダラパーは、アウェー感を終始表明しながらもキッチリ仕事をしていたし、トラックもリリックも聴けば聴くほど面白い。マキタスポーツはバンド形式。テレビやラジオでやっているような、同一コードの曲を二曲同時にやる、というようなネタでくるのかと思ったら、それは最後の「愛しのエリー」と「乾杯」を合体させたものだけで、古典的なコミックバンド形式で大半をやっていた。グループ魂は十何年ぶりに見られた(たぶんその間、見ていないと思うが、自信がなくなってきた)。「今年は大沢樹生ふなっしーの一年でした」という発言と、皆川猿時の、「清水さんのラジオにピンで呼んでもらったら、あなた宮藤さんがいないと面白くないわね、と言われて落ち込んだ」という話が良かった。あと、MC中に延々ボケていく大喜利のような展開になるところもスリリング。曲のこと書いてないけど。ピックでなくてスリッパを投げるが、飛びすぎて危ない。松尾スズキは幕間に流れる映像で参加。幕間の演者のあせる気持ちを自己言及的に表現した、清水さんとの共作共演の曲とその映像で、こちらも器用でキッチリした仕事。黒柳徹子も幕間の映像で二度登場。清水が徹子の面白いエピソードを興味深く聴いていく、という構成で、「地震で溝に落ちた中国のパンダが立派だった話」「モールス信号を独特な方法でおぼえさせられた話」が絶品だった。夏にフリードミューンで見た瀬戸内寂聴の講話や、リー・ペリーのパフォーマンスを想起させるようなドライブ感あふれる熟年芸。

そして満員の観衆を前にグランドピアノでの弾き語りというシンプルな形式で、繊細に堂々と歌うトリの清水さん。だいたい、ものまねなのにグッとくる、というのがスゴイ。ものまねを一段低く見ているのではないが、感動させるものではないだろう。「ひこうき雲」もそうだけど、特に「ヨイトマケの歌」は、本家よりも歌い手のフリーク性というノイズがリムーヴされている分、純度のあるパフォーマンスとしてこっちのほうが訴えかけてくる気がする。真顔でとんでもないこと言ってますが。

で、だらだらと書いたがいちばん言いたかったのは、自分はお笑いが好きなんだ、それも通常のそれを逸脱するような、異常なパフォーマンスが好きなんだということだ。

この企画にはミュージシャンと交互で、レイザーラモンRG椿鬼奴森三中の黒沢かずこが芸を披露した。自分は舞台袖にちかい席で見ていたので、舞台転換中に、邪魔にならないように袖のあたりでやる彼らがかぶりつきで見られて眼福だった。

RGのあるあるネタは、大好きな「君は1000%」や「ワインレッド」のやつは聴けなかったが、「蝋人形の館」、そして「清水さんが大好きな曲をやります」という曲紹介(大嘘)でやった「田園」を、一万人のまえで歌い上げるのを目撃できた。

自身が大好きな曲に乗せて、これからあるあるを言うと宣言し、歌が始まるとこれから言うよ、言うよ、と歌いながら延々あるあるを言わず、さいごの一瞬でしょうもないあるあるを言って、やってやったという表情で去って行くというこのネタは、はたしてネタなのだろうか? ネタはネタだろうとして、では芸と呼ぶのだろうか?

まず、このネタをどう受け止めたらよいか、その受け身の取り方を観客が知らないと、成立しないということがある。この時代の日本でないと出てこない芸ではないか。高度かどうかは知らないが、フクザツな文脈があって、ギリギリのところで成立している芸であり、その緊張感もたまらないが、そういう芸を生み出し、許容する、日本文化がすばらしいと思うのだ。

まず、聴衆やカメラのまえで、延々とカラオケを歌うということ。これは芸ではないだろう。テレビでやった場合は、ここで共演者や司会者がザワつく。「あるあるやるゆうたのにカラオケかい!?」というリアクションだ。今田がここにいれば、「あるあるはよ言えや!」とガヤガヤすることだろう。そしてこのときの今田のうれしそうな顔は、youtubeでぜひ、見てください。さらに、この男はAメロBメロを歌いきって、サビに入るのだが、ここでも結論(=あるある)を言わない。なお一層、激しくしっとりと歌い上げる。ここでもスタジオは盛り上がる。観客席というより、ひな壇とMC席が。みんな知っているのだ。この男があるあるをなかなか言ってくれないということを。そしてワンコーラス悠々と歌い切る、その刹那に、ふっと放たれたあるあるをスタジオは突然に聞くだろう。しかし、満を持して放たれたそれは、しょうもないあるあるだ。これだけ待たせたのに、このあるあるなのか?!(ためしにyoutubeを見たら止まらなくなったが、「棚卸し」あるあるで「棚卸しはしんどい」と言っていた) 2013年、アホッターにはじまり猪瀬都知事辞任にきわまる、過剰なバッシングがはびこる現代日本で(猪瀬氏の辞任は当然です!わたしのようなものまで発言に気を遣う社会)、これだけ危険な場面は、他にないではないか? 芸ではない、ネタだかも判らないものにこれだけ時間を費やして、このあるある?! しかしRGは困惑と笑いという観客、共演者からの祝祭を浴びて、満面の笑みで退場するのだ。為末大が競技者としてもトレーダーとしても栄華を誇っていたあのころ、華麗に無数のハードルを飛び越えていったように、RGは2分だか1分半だかの時間のなかで、あらゆるテレビのお約束を笑顔で飛び越えていくのだ。そしてそこには、司会者や共演者たちの、「視聴者のみなさん、この芸はこう見るんですよ」、という温かいサポートがある。思えば上島竜平の芸も、世界のナベアツも、右から来たものを左へ受け流すの歌も、読みとき方、笑い方を視聴者にレクチャーする、送り手の姿があった。これを「内輪の笑い」「笑いの押し売り」として批判するのもいいだろう。しかし、たとえばすぐれた現代アートは、たえず鑑賞者に向けて作品を解釈して伝える言説がないと、成立しない。これは学芸員やキュレーターがやったり、批評家がやったりするが、アートの場合には自作プレゼンテーションというのがある。村上隆のことが好きなのはこの部分の仕組みと自分の努力について説明する文章や発言が明快かつアジテーショナルだからだが、では、先鋭で難解なのかクズなのか判別不明なRGやその他のネタに、自作解説などという場はあるだろうか? ないし、そんなことしたら白けちゃう(ここで大滝詠一が亡くなったというメールが友達から届くが、乗っているのでつづけます)。だから今田耕司やライト東野がいつもスタジオでやっていたのは、日本文化を支える仕事だったということなのです。

椿鬼奴は、八代亜紀のよく知らない曲をそれらしく歌うというネタ、RGとのバービーボーイズ「目を閉じておいでよ」など、大満足のステージ。でもこれもそうだ。八代亜紀がどういう人で、杏子とKONTAがどんな声で、、、ということが判っていないと、面白くない。でもそれは、物まねだから当たり前だ。いや、ちがうんだ。鬼奴という人がどういう人となりの人か、テレビでどのような需要のされ方をしているか、そこまで要素が増えてくるんだ。わかりますか。

この日の出演者は、一組を除いて、すべて事前にアナウンスされていた。では当日半ばシークレット気味に出演したのはだれか? MAXの三人だった。怒濤のヒットメドレー(というほどやってないけど)に載せて歌い踊る。なんとも加齢感が味わい深い。三人それぞれに加齢度が異なっているし、加齢がエロさになっている人、ならなかった人、ステージ三人三色、人生を思うひととき。で、最後にやってくれた。椿鬼奴をむかえての「タカタ」である。

フルサイズで4人(MAX3人の鬼奴)でやるのは初めてだそうだ。それより「タカタ」を知っていますか?
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1307/23/news089.html
夏ごろはやったが、自分はツイッターでちょっと目にしてPVを見たくらい。どれくらい話題になったかも知らなかった。鬼奴がテレビで積極的に紹介して、ときどき4人でやるようになったらしい。


芸術でいえば「コンテキスト」「文脈」というものが、笑いでいうと「ツッコミどころ」ということになるんだろう。見ている人のツッコミをどれだけ呼ぶかが、ウェブマーケティングのキモであるとは中川淳一郎が折に触れて著書で書いている(ゆえに高級車のブランディングなどをウェブで成功させるのは難しいと中川さんは言う)。笑いもいっしょで、ネタは単独では存在しない。見ている人のツッコミや笑いがないとネタにはならない。この傾向はますます強くなっている。

最後に、黒沢かずこだが、来年は午年ということで、間近で四つん這いのおしりが見られて良かった。

http://trendpress.net/entame/kurosawa_yase.html


清水さんは開会宣言で、笑いには緊張と弛緩がある、という落語家の有名なことばを引用した。彼女の物まね芸は、まさに短時間に緊張と弛緩がめくるめく交代する、高度な芸だ。このような複雑高度な芸に対して、一見RG、黒沢さん、鬼奴さんがやったのは、窮余の一策、巧みな話芸やひねったネタなどがない、裸一貫から振り絞った浅い芸として見る向きもあるだろう。しかし自分には、このフクザツでしょうもない日本が生み出した、コンテキストをたくさんしょった独自の笑い、それも、とても大衆的な笑いとして楽しく見た。そして無意識にそれらをキュレーションした清水さんもすごい。