まがじなりあ・あちらこちら 1

週刊新潮』の福田和也の連載で、『スペインの宇宙食→amazonの著者として菊地成孔が紹介されていた(『すごい奴「菊地成孔」登場』)

二人のむすびつきは既に知っていたので意外ではなかった。菊地氏の存在を福田氏に教えたのは、福田ゼミの学生である。いつも思うが、福田氏がゼミ生から得ているものはとんでもなく大きい。福田氏にとってゼミ生とは、読みでのある文化系個人サイトみたいなものである。閲覧に端末を必要とせず、全部がアンテナに登録されていて、しかも頻繁に更新される個人サイトみたいなものである。

福田氏曰く、

 教員をやっていることの最大の喜びは、学生諸君とのつきあいです。

 学生諸君から蒙る恩恵も、少なくありませんが、そのなかでも大きいものは、情報、特に文化動静に関する情報でしょう。あのギャラリーは面白いとか、こういうデザイナーがいるとか、とんでもないダンサーがいる、といった話は、著者としての私にとってかけがえのないソースとなっています。


たとえば『間取りの手帖』→amazon佐藤和歌子も福田ゼミ出身だけれど、あの本もとても個人サイト的な企画だ。ああいう学生が何人もいるとしたら、福田ゼミをインターネットと捉えるのもそれほど妙でもないだろう(福田ゼミはかなりの大所帯だと聞く)

どうでもいいけれど(そんなことを言ったらここに書かれていることの大半がどうでもいいことだ)、上に引用した文章の後には、つぎのような一文が来る。

道聴塗説の右代表のような私は、しばしば貴重な情報を取り違えて恥をかくのですが。

この部分は、おそらくあれのことを言っているのだろうと思って、引っぱり出してきたのは『群像』8月号。いや、ほんとどうでもいいんだけど。

この中に掲載されている永江朗陣野俊史(先月くらいの『図書新聞』によればECDなど日本のヒップホップについて本を出すとか)田中和生による鼎談「僕らにとって批評は必要だ」は『群像』の転換というか改革というか変節を示すものであり坪内祐三の「『別れる理由』が気になって」が、回を追うごとに、浮いて見えるのはおれだけか)、『早稲田文学』で上野昂志が激しく批判していたが(こんな時代、上野氏みたいな人間にはほんとキツいと思う)、そこで陣野氏は、単一言語的でなく、「世界スタンダード」な視野と教養を持った人間として、篠田一士の話をする。そこから、現代でそれをやろうとしている批評家として名前が上がるのが福田氏である。

永江 ナチ時代のフランス文学を研究していますとか、あるいは、骨董についてもしゃべれますとかね。
陣野 個別に見ていくといろいろある。アラをいってもしようがないけど、この間出た福田さんと香山リカとの対談で、ブルーハーブパールハーバーを賛美しているからいいんだよねみたいなことを福田さんがいっていて、ブルーハーブはいってねえよなって。あれはShing02の間違いです。そういう小さい間違いをいうとあれだけど、でも、ヒップホップもカバーしてますよみたいな態度を取るなら……。
永江 三田格も「噂の真相」でそこを突っ込んでいましたね。

なんだか東浩紀と東氏に反感を持つオタクの構図に似ているけれど、こちらの方が断然清々しい。もっと通人ぶっていろいろ語って、そしてもっと「おっさん、ぜんぜん判ってねえよ」と叩かれたらいい。ぐるぐるかき回してくれなきゃ、盛り上がらんぜ。