ぼく(たち)の好きな冒頭 6

 人間の記憶は薄れやすいものである。
 おそらくは今日、十五年前日本を揺がした一大事件と、それに続く戦争状態という比較すれば散文的な事態とをあえて思い起そうという者はあるまい。地方の一県が分離独立したからといって、日本全土を暗雲が覆い尽くした訳ではないし、この第三世界じみた事件が著しく日本人の自尊心を傷付けたということもなさそうだ。大体が、我々が傷付くのは貧乏人呼ばわりされた時だけではないか。馬鹿にされたくなければ一銭でも多く稼げ――これこそ一九四五年以来、わが国が唯一の国是としてきた所であり、かくて闇屋で荒稼ぎして無傷で帰ってきた私の父は勲章を貰っても、名誉の負傷で杖を手放せなくなった私には何の恩賞もない。それはそれで結構なことだ。あの時期、N***県で幼年期を送らざるを得なかった私は、他の何にもまして、イデオロギーにうんざりしている。一時は、金こそは力であり正義であり真実であるという父の見解ほど爽快なものはないように見えたものだ。今やそれも所詮はイデオロギーに過ぎないことが明らかになって、その爽快さも少しく薄汚れて見えるのは確かだが。


佐藤亜紀『戦争の法』(新潮社)