タワレコで『HISTORY OF JAGATARA ナンのこっちゃい I』→amazonゆらゆら帝国『な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い』→amazonを買った直後に翌日からポイントが二倍になるという告知を目にして陰鬱な気分に陥ったが、直後に石原さとみが表紙の『週刊朝日』12/5特大号を買ってV字回復に成功する。

久しぶりに、澄みきった、胸の透くような良い腋を見た。腋には何もない。それはただの皮膚に過ぎない。しかしそこには全てがある。小さな宇宙の拡がりがある。

雑誌と一緒に『Overground』Vol.8(http://overground.kissweb.jp/index.html)と南伸坊『本人の人々』(マガジンハウス)→amazonを買った。

南氏と清水ミチコがやっている顔真似は、二つに分けられる。まずストレートに本人に似せようとしたもの、それと似せることを最初から考えずに、確実に笑いを取りにいっているものの二つだ。清水氏は後者を得意にしているように見えるが、南氏は、まちがいなく前者の人だ。『ダ・カーポ』の連載をまとめた本書を見ればそれは明らか。Gacktやタマちゃん、ボブ・サップ、アニータ、大神源太(!)など、きわもの系の顔真似があまり冴えないのに比べ、矢沢永吉小泉首相村上龍加藤紘一など、対象にまっすぐに近づこうとした顔真似の持つこの迫力は、一体なんなのだろう。特に清原和博の、右目と左目の形や、黒目の向きがちがっている辺り。試しに写真の顔を左半分と右半分で、それぞれ手で覆ってみる。するとどちらか半分だけが見えている状態では、まるで清原になっていないことに気づくのだ。

物真似において、ふつう対象に似ているものを見て、こちら側に生じる感情は、「よくそこまでやったね、思いついたね」「面白いね」といったほんのりとした驚きであるが、こんなものはやたらタイトルが長いメガヒット小説が撒く共感と同じで、大したことがない。南氏の物真似は、見ている者にその事実の受け入れ自体を拒絶させる。受け入れなくてはならない現実を突きつけられた時、昨今では「ありえない」という言葉を発するのがはやりだが、南氏の一部の顔真似は、まさに「ありえない」。このおむすび風の頭をした中年男性がどんなメイクで、どんな角度から写真を撮ったところでこんな結果は起きようはずがない。おれは笑い、恐怖した。