ぼく(たち)の好きな冒頭 7

 初めの間は私は家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云って、親父を嫌がる法があるかと云って怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がぱったり倒れると、いきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すと云うことがあるかと云う。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから、反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。少し子供が泣きやむともう直ぐ子供を抱きかかえて部屋の中を馳け廻っている四十男。この主人はそんなに子供のことばかりにかけてそうかと云うとそうではなく、凡そ何事にでもそれ程な無邪気さを持っているので自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ。家の中の運転が細君を中心にして来ると細君系の人々がそれだけのびのびとなって来るのももっともな事なのだ。従ってどちらかと云うと主人の方に関係のある私は、この家の仕事のうちで一番人のいやがることばかりを引き受けねばならぬ結果になっていく。

横光利一「機械」(新潮文庫

先鋭的な文学青年たちはいつの時代にも、それぞれのスターを持っていた。戦前戦中なら横光利一、もう少し下の世代なら石川淳、……という風に。自分は舞城王太郎に過剰な思い入れはないけれど、現代で上記二人の系譜を継ぐ書き手を探すならば、舞城氏の名前が出てくるのは自然なことだと思う。

石川淳の初期作品と横光利一の「機械」、そして舞城氏の初期三部作に共通点を求めるとするならば、まず猛然と畳みかける圧倒的な文体だ。特に「機械」の、冷静な一人称による時々しか段落が変わらない文章は、歯車がゆっくりと回転していくように事態が徐々に抜き差しならぬ状態に陥っていくという内容にぴったり合っていて、読み返すたびに背筋がゾクゾク来る。緊迫感のある短めのセンテンスは、神経質な人間がテーブルを爪先でカツカツ乱打する仕草に似ている。

「機械」に影響を受けた若き文学青年の一人である筒井康隆は、新潮社から出ていたカセットブックでこの作品を朗読している。朗読による「機械」もまた別種の狂気を感じさせてくれそうで、例によって5割5分の積極性で探しているけれど、まだ見付からない。

そういう訳で次回は石川淳の初期作品を抜き書きする。