上野まで来てまだ20時前なら、行くところは一つっきゃないだろ、そんな気分で小雨の中自転車は不忍通りを滑っていくのだ。中途にある千駄木駅前のカフェで『ドン・キホーテ 後篇(一)』(岩波文庫→amazonを読み終え、往来堂書店(http://www.ohraido.com/index.cgi)でプーシキン著・神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』(岩波文庫→amazon買う。今日気付いたけれど往来堂はレシートに書名が載っているんだよな、どういう仕組みなんだろ。

雨足が次第に強まる中、古書ほうろう(http://www.yanesen.net/horo/)へ駆け込んだ。店内にはYMO『BGM』が鳴り、"We all talk too much"にうなずき、しかし"We all think too much"には共感しない。

ほうろうは7月末に編集者でありライターの南陀楼綾繁id:kawasusu)(http://homepage2.nifty.com/teiyu/journal/nannda_back.html)のイベントがあった(http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20040730)のだが、今日現在も氏のフェアである「第一回モクローくん感謝祭」をやっていた。東京堂ふくろう書店の「坪内祐三の棚」的な趣向で、入り口横の小さめの棚を使って氏のセレクトした書籍、氏が刊行したミニコミ、寄稿したミニコミ、商業誌、果ては「非買」とシールを付けられて、学生時代に作ったミニコミや製本された修士論文(担当教官の手紙付き)が種類別に収められていた。まだ買っていない新刊は初出で目を通しているものがけっこうあるので今日も敬遠して、『モクローくん通信』の揃い(¥500-)と古書音羽館田中小実昌の本』西荻のあの音羽館西江雅之南陀楼氏らの文章が収められた「付録」が付いている)、そして帰ってきてこのように心安らかに端末に向かっていると、どうも既に持っているような気がしてきた南陀楼綾繁『私の見てきた古本界70年 八木福次郎さん聞き書き』(スムース文庫)を買った。

古書ほうろうは、千駄木よりも中央線沿線がしっくり来るような、左翼的サブカル古書店だが、この町にこういう店があるのは面白い。南陀楼氏が編集に携わっている『季刊本とコンピュータ 第二期12』に、店員の宮地健太郎さんが寄せた文章によれば、現体制になる前は、いわゆる普通の古本屋で、店主の本業である古紙回収業のかたわら続けられる<趣味を兼ねた副業>だったという。しかし店主と従業員の間に齟齬が起こり、従業員たちは店を買い取る。以下はその経緯である。

 問題は増え続ける在庫で、「持ち込まれた本はすべて引き取る、本は捨てない」という店主唯一の意向がその原因でした。現場にいれば「いかに買い、いかに捨てるか」が古本屋の要諦であることは一目瞭然なのですが、わかりあえないまま関係は悪化。全員解雇通告、組合結成、解雇撤回運動などを経て、最終的には有志四人で店を買い取ることになりました。一九九八年の一月のことです。


上でこの店を「左翼的」と形容したが、ほうろうの店員さんたちにとって左翼は単なる意匠ではないのである。上の引用文につづく文章には彼らの生活へのマインドのありようが書かれており、それが一層よく判る。

 なんとか続けてこられたのは、決して無理をしなかったからでしょうか。どんなに給料が減ろうとも、むやみに労働時間を増やしたりはしませんでしたし、売上目標も立てたことがありません。四人それぞれが自分の生活を楽しむことこそが、大切なものを店にもたらすのだと思っていましたから。

ほうろうはフェイッバリット古書店の一つだが、今日は全体的に丁寧に眺めて回ったにもかかわらず、南陀楼氏の棚にあるもの以外は買わなかった。あえて「個人的な意見だが」というような緩衝材を使わずに書くが、古書ほうろう、最近品揃えがぱっとしない気がする。以前は入ってすぐの絶版文庫の棚に石川淳がズラーッと並んでいたり、アメリカ文学がすごかったり、足を運ぶたびにセンスオブワンダーを感じさせられたものだ。各分野への目配りはそつがないが、並んでいる本まで行儀よく、意外性がなくては面白くない。最近池袋はずれの刺激的なニューウェーブ古書店古書往来座に通っているからそう思うのかもしれないが。でも一時間前に買ったばかりのプーシキンの『スペードの女王・ベールキン物語』を見つけたのは悔しさあふれる<意外性>だったけれど。