まがじなりあ・あちらこちら 3

用向きで神保町。専大そばだったので、@ワンダー、日本特価書籍(実は改装してから初めて行った)信山社と見てまわる。『みすず』6月号(http://www.msz.co.jp/monthlyreview/)にはバルトの絵画と彼自身のつながりを浅田彰小林康夫高橋睦郎が気ままに語った「ロラン・バルト、アーティストとして」が載っていて、発売時には気付かなかった、買っておく。それと明日には新しいのが並んでしまうので、廣文館書店で慌てて『Flash』を買う。が、そんなゾンビのようなスタイルしてまで買い求めるほどのものでもなかった。

上記対談にこんな文章を見つけた。

浅田彰 今日、高橋さんと僕は「明るい部屋」の会員として、つまりある意味では美術品のコレクターとしてここにいるわけです。普段は他人の所有する作品について論ずるだけですが、自分の所有する作品を出展するというのはやはり特権的な体験ですね(笑)。
 ただ「所有」というのは正確ではありません。一九八五年に、ウナックトウキョウの海上雅臣さんから、バルトの絵が四十六点まとまって手に入るので、そもそも日本文化に触発されて描き始められたものでもあるし、一点一点が美術品市場で高値を呼ぶようなものでもないだろうから、日本でなにか仕組みを作って作品が散逸しないようにみんなで預かることができないだろうか、という発議があった。それで、中沢新一さんや僕など何人かが呼びかけ人になり、高橋さんをはじめ、全部で四十六人の人間が絵を共同購入する、で、一点ずつ手もとに預かるんだけれども、時々くじ引きをして交換していく、という会が組織された。それが「明るい部屋:です。……バルトが知ったら面白がってくれるんじゃないかなと思います。


これは2月16日に、東京日仏学院エスパス・イマージュに行われたイベントで、「明るい部屋」会員の共同コレクションを集めた絵画展の付帯企画であった。公開トークということで、浅田氏がどんな言葉で鼎談を締めているかが、つい、気になる。

浅田 バルトがスタンダールについて「人は愛するものについて常に語りそこなう」と言っていますが、詩人ではない私にとっては、バルトというのは心から愛する対象であるとともにきわめて語りにくい対象でもあって、今日もまた語りそこなってしまったなという気はしますけれど、今の詩で救われたように思います−−jouissanceとplasirの間になお残る微妙なズレを除いては。今日の話をふまえてまたバルトの残したテクストを読み、絵を眺める楽しみ−−plasirを体験できればと思います。


「人は愛するものについて常に語りそこなう」という言葉で想起したのは、先週の『ぴあ』に載っていたポール・ウェラーの言葉だ。カバー曲集『スタジオ150』→amazonの発売にともなうインタビューで、彼はこう話している。

「このアルバムでは自分のお気に入りの曲じゃなくて、あまり馴染みのない曲をわざと選んだ。もし、好きな曲ばかりにしてしまったら、キンクススモール・フェイセズは避けて通れなくなる。でもそれだと細部のアレンジから何から頭にこびりついているから、ただのコピーで終わってしまう。おおよその構成しか知らず、思い浮かんだものをパッとやる。それによって、俺なりの再構築が出来たと思う。ポール・ウェラーのアルバムになっているだろ?」
(取材と構成は増井修