まがじなりあ・あちらこちら 5 * きれぎれ文学考察 5

今度書こう、と思って雑誌を積んでおくのだけど、ふっと気付くと2週間くらい経っていて、もういいや、つまらん、となることは数数え切れない。でもTBSラジオ糸井重里がやっている「ザ・チャノミバ」で*1、糸井氏の相手役になってバービーボーイズKONTAみたいな声で新しい家の話とか奥さんの話などといったまさに茶飲み話をしている「ナガエさん」の声を聴いたらやっぱり書いておくかって気分が変わったので書く。

 さらに、これを世界文学の中に放り込んでみる。ピンチョンやバースやバーセルミ、イシュメール・リードやクーヴァーやソローキンは、たしかに「ライト」とは言えない。しかし、人間の内面を描こうとしてきた古くさい日本文学よりも、ライトノベルのほうが、それらに近い位置にあるのではないか?
永江朗舞城王太郎は世界文学と並ぶ!?ライトノベル出身作家を読まずに小説の未来を語ることなかれ!」『SPA!』10月5日号

「カルチャー大学批評学部」という文化欄の文章。初めの「これ」は、ライトノベルのことを指している。雑誌記事だからタイトルは「見出し」であり、執筆者が付けたものではないと思う。

生半可な書評家が山っ気を出して書き飛ばしてしまったというなら気にならないで見逃してしまうけれど、ピンチョンの『ヴァインランド』を発売後すぐに三度読んだと豪語し、ポストモダン文学を中心とする世界文学を読み込んできた永江氏がサラッと言ってしまうのにおれは引っかかった。週刊誌のカルチャー記事だからって、脇が甘くなっていないか? 疑問符で文章を終わらせるのは、読者や業界への問いかけというよりも、一つのお茶の濁し方ではないのか? もしこれが氏の本心だというなら、然るべきもうちょっとハードな場所で、『文藝』でも『小説トリッパー』でも、書く場所はたくさんあるのだから、言葉を尽くしてしっかり論じておくのが手順を踏んだやり方なのではないだろうか。

こういったライトノベルの格上げみたいな動きは、今年がピークなのだと思うけれど、どうにもキナ臭い。ライトノベルライトノベルでいいじゃないか。「ライトノベルはすごいんだ、ライトノベルで良いんだよ!」という業界のメッセージは、成熟の否定につながるんじゃないか。おれは今日、マッチョになるよ。大塚英志は『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書→amazonで、70年代には筒井康隆井上ひさし小林信彦のオヨヨシリーズなどのジュブナイル小説が10代の若い読者を文学に結びつけるツールとして、重要な役割を持っていたと書いていた。そういう時代を懐かしむ気持ちはゼロだ。しかし30にも40にもなって、自分ちの本棚が全部ライトノベルで、しかもそれにそこそこ満足してしまっているっていうのは、恥ずかしいことじゃないだろうか。現在の業界の風潮は、そういう人間を全肯定し、育てているように見えるのだ。オタクは最先端でライトノベルは新しい日本の文学か? みんな本気か? 『ユリイカ』も本気か? ガエハウスは快適か? なんかヤバいぞ。

要はちゃんと読んで判断すればいいのだ。錬金術にだまされないことだ。滝本竜彦の小説とロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』(新潮文庫→amazonは、ともに引きこもりが主人公で、彼らはとんでもない妄想癖を持っており、それが作品を支えている。そういう共通点は、ある。または、永江氏は上の文章には出していないけれど、『ドン・キホーテ』もそう。異常にキャラの立った主人公と従者が登場し、RPG的にストーリーが展開し、かつ読者が頭の中で彼らを想像する時、リアルな肉体を持った人間をではなく、ギュスターヴ・ドレの挿絵(の前にもいろいろあったにちげえねえが)からイースタンユースのアルバムジャケットに至る、古今東西流布している様々なイメージ(=キャラクター)をかならず思い浮かべる。だいたいすごい剣幕で罵られて、その瞬間にも足もとの地面が大きく開いて自分を呑みこんでくれたらありがたいと思うというのは、もうマンガですよ。そもそも、騎士なんていなくなった時代に自分が騎士の生き残りだと妄信している主人公という「設定」は、非常にライトノベル的だ。そういう意味で、自分は『ドン・キホーテ』をキャラクター小説の嚆矢ではないかと思い始めている。そうだとすると、ナボコフOKさんの、『ドン・キホーテ』は騎士と従士が行き過ぎた苛めや暴力に遭うのが耐えがたい、という意見に、「?、???」とまるで共感できなかった理由が判る。自分はドン・キホーテを、生身の身体を持った人間としてイメージしていなかった。知らず知らずのうち、挿絵や彼らのコミカルな挙動から、彼らをキャラクターとして頭に浮かべながら読んでいったのだ。

別のところでゆっくり書こうとしていたことを駆け足で書いたが、つまり、そういう部分においてはライトノベルと世界文学は似ている。しかし、だからなんだ? バーセルミは? ソローキンは? という話である。

あと、<ピンチョンやバースやバーセルミって言葉も20世紀も終わったし、もう死語にしていいんじゃないか。もちろん3人の仕事は現在もすごい強度を持って文学史に君臨している。しかし批評家や書評家がそこで止まってしまうのは、寂しいし、怠けている気がしないか。

*1:わざわざ指摘するほどのもんでもないが、サブカル系の批評家、言論人をTBSラジオは積極的に起用していて、TBSラジオに出る出たというのはサブカル・メジャーへのステップアップである。この路線を「アクセス」や「デイキャッチ」での宮台真司宮崎哲弥の出演あたりに求めるなら、その源流は文化放送梶原しげるの番組にあるのかもしらんが。辛酸なめ子町山智浩が出ていた昼のワイドを聴いていたら萩原健太がパーソナリティをやっていてその日、音楽コーナーに登場したのは湯浅学だった(!)。クドカンの番組に向井秀徳が出たり、竹中直人のそれにsketch showが出たりというのはラジオならではのひろがり。