訳者あとがきは教室なのだ

先週末ブックファースト渋谷のバラードフェアで買ったバラードの『殺す』(東京創元社)を早速読み終えた。たいへんに短い中編。特異な邦題からか以前から知っていた本だけれど、まだ『結晶世界』しか読んでいない人間が手に取るべき作品ではなかった。中級者〜上級者が読む本だ。難解と言うことではなくて、避けて通れない主要な作品ではないということだ。

バラードの初期のニューウェーヴSF作品は、コンデンスノヴェル、直訳して濃縮小説と呼ばれているらしい。文章の密度、テーマの緻密さがその所以だろうか。『結晶世界』はSFでありながら文学でもあるという部分では、これまでに読んだなかで最良の小説だった。なんと言っても「結晶化した森」のディテールの描きこみがすばらしい。物質がつぎつぎと結晶化していくというのは荒唐無稽な絵空事だが、もしかしたら本当にこんな森が存在するのではないかと錯覚を起こさせるくらいにリアリティがある。森に対峙する人間の心の動きも然り。風景描写、心理描写ともに、作り物めいたところが全くないのだ。見事な小説を読んだという、濃い読後感が残った。

『結晶世界』創元SF文庫版の中村保男「訳者あとがき」にも同様の指摘がある。ほかにも『結晶世界』のポイントを漏らさず指摘していて、ひき締まった良い文章だ。最近よく思うのは、SFの訳者後書きというのは、本当に書き手が誠実に作品に向き合って書いているということ。どれも非常に勉強になる。情報量が多い。強引な理屈のすすめ方のように思われるかもしれないが、これを新潮文庫でも何文庫でもいいが、社交サロンや人物ポートレート、印象批評に終始する国内文学の文庫解説と比べるとくっきりと差が見える。これが何に由来するものか、まだちゃんと考えてはいないのだが、SFの語り易さ、文学の語りにくさというような、単純な説明では済まないという気がする(単に訳者の情熱ということなのか。岩波の古典の翻訳と、海外エンタテイメントのそれなどと比べると、もっとはっきりするかもしれない)

ちなみに大森望の好著『特盛!SF翻訳講座 翻訳のウラ技、業界のウラ話』(研究社)には、「終わりよければすべてよし −訳者あとがきの正しい書きかた」(初出は『SFマガジン』)というタイトルで、翻訳SFの訳者あとがきについて3ページほどの文章が載っている(余談だがこの本の後書きには「訳者」あとがきというタイトルが付けられている)

自身の手になるディック『ザップ・ガン』(創元SF文庫)の訳者後書きが『本の雑誌』の「文庫解説ワースト10」に選ばれてしまったことを枕に、ペリー・ローダンシリーズの松谷健二氏は<身辺雑記エッセイ>的解説、伊藤典夫<解説に徹した訳者あとがき>浅倉久志<一篇のエッセイとしても楽しめる自然体あとがき>という風に、訳者ごとの「訳者あとがき」の特質を評していく。サンリオSF文庫には、解説の枚数制限がなく、ディックの『ヴァリス』二部作に付いている大瀧啓裕の訳者後書きは、<文庫本でそれぞれ七十四ページ、四十六ページという驚異的な枚数>だという話は面白かった。内容も水準の高いものだという。

#ちなみにこれを書いているのは6月の中旬で、もう目を通されている方も多いだろうが備忘録として書けば、『BRUTUS』6月15日号は「全730冊本特集! 本ハートラブ。」という特集を組んでいる。このなかに、高橋源一郎の同文庫賛を添えた「サンリオSF文庫全197冊。」なる記事があり、サンリオSF文庫の全書影をヴァーッと載せている。この特集は、ほかに南伸坊リリー・フランキーに扮したポートレート、おなじく細木数子の顔マネに添えられた文章、板尾創路の読まずに内容を類推する「変なタイトルの本。」といったガツンとくる内容の記事があったので、なんの躊躇もなく購入できた。