本棚は真実のスーパースターでいっぱい

昨年11月、2段組700ページ超という超弩級鬼瓦本の体で『ラナーク―四巻からなる伝記』の邦訳を世に問い、知る人ぞ知るスコットランドの文学的巨人アラスター・グレイを本格的に(というのは短編集が一冊、すでに出ている)わが国の読書人に紹介した、国書刊行会の若き(?)名編集者・樽本周馬。2007年は、ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(シリーズ「短編小説の快楽」2月)、キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』(シリーズ「短編小説の快楽」5月)、そして『虎よ!虎よ!』のベスター後年の問題作『ゴーレム100乗』(6月)と、『ラナーク』を出すまえから、大いなる助走のように続けざまディープな海外文学を繰り出していた樽本氏だが、その氏の2008年一発目が、武藤康史の『文学鶴亀』であるということに、氏の一連の仕事に眼を配り続けてきた(特に海外文学、SF寄りの)ファンがいるとしたら、意外に感ずるというか、膝をカクンとやられた気分かもしれない。登ったばかりの梯子をスパーンと外された気分かもしれない。クラフトエヴィング商會の表紙が上品な『文学鶴亀』は、この一年の氏の仕事から見るとそれくらいの変化球だ。
が、氏がそもそも安田謙一の『ピントがボケる音―OUT OF FOCUS,OUT OF SOUND』(2003)という網羅的なスクラップブック(同語反復?)で、本格的な編集者としてのキャリアを始めた人物であり、また『ハイスクールU.S.A.』というユニーク(で、ポップカルチャーを追求したものでありながらとてもヘヴィーな)な評論集を送り出した人物であることに思いをめぐらせば、『文学鶴亀』の出現は瓢箪から駒が出るようなことではなく、特段の驚きをもたらすものではないのだ。

とはいえ、おれは武藤氏の文章には文芸誌ほかでチョロッチョロ触れ続けてきたけれど、これほどたくさんの引き出しを持ち、諧謔に富んだ藝文をものする書き手であることに、そして加えていえば、これほどチャーミングな奇人であるとはついぞ知らず、圧倒された。

版型は単行本サイズでありながら、段組(1段〜3段)や内容は幕の内弁当的なスクラップブックである本書の見せ場をひとつ挙げるとすれば、書誌学的な手法で書いた「批評の細道」のなかの、大西巨人谷沢永一蓮実重彦(というより佐藤真)と並んでいるあたりはどうか。この並びが表すように、読者をおどろかせ、同時に楽しませようという著者と編集者のたくらみがあちこちで透けて見えるようでこの本は嬉しい。

で、「大西巨人この一年」は、『三位一体の神話』(1992)の刊行時に同書を取り上げた書評家や『すばる』編集長らに、ドンキホーテのように<矛先>を向けていった大西氏の文芸の鬼としての振る舞いを紹介したものだ。が、物々しい、剛速球のような大西氏の文章をつづけて紹介したあと、氏の作品で自分と同姓同名の人物が出てくることを喜んで、こんなスローカーブを投げてくるから、武藤康史は(かくれた)真実のスーパースター。

康史をやすしと読むのは湯桶読みであり、私にとってこれは人生最大の悩みであった。大学時代、先輩に「名前が湯桶読みのお前が旧字旧かなを使うなんてちゃんちゃらおかしいよ!」と揶揄されたこともある(その先輩は「道生」という名前で、反論のしようがなかった)。

※武藤氏は<高校一年の二学期から旧字旧かなを使つてゐる>。