ヘンな文章が好きだ8 / ナボコフ日記 revisited1 ナボコフ『プニン』メモ


今週末は日本ナボコフ協会(http://vnjapan.org/)の年次大会が外語大である。

http://blogari.zaq.ne.jp/propara/article/10/

前回参加した東京海洋大学での大会では、碩学ブライアン・ボイド夫妻からサインをいただけて嬉しかった。今回気になるものには、グロテスクで幻想的なランを日本画の文法で描く中村恭子さん(http://wiki.livedoor.jp/fuji_kaika/d/profile)の、講演「ランを通して読むナボコフ『アーダ』」がある(展覧会もひらかれる)。中村さんは、1月に池袋サンシャインで開かれた「サンシャインシティー 世界のらん展 2009」というランの展示・販売会のなかで小さな展示を行って、自分はこれを見に行ったが、絵画作品とならべてパネルで掲出された「ランと文学」というようなタイトルの文章が印象的だった。世界文学のなかに登場するランを紹介したもので、簡潔ながら要諦をおさえた文章と、目配りのひろさに感心した。パネル下のガラスケースに、文中で紹介されている文学書が陳列されているのもよかった。美術の実作と文章の執筆を両方よくする人というのは、五秒で思いつくものでは、赤瀬川原平尾辻克彦森村泰昌岡崎乾二郎に古谷利裕、ちょっとちがう気もするが会田誠など、わが国でもたくさんの才能があるけれど、ナボコフのような骨太な文学に、端正な文章ときりっとした頭の動きで向き合える美術家はめずらしいと思うから期待しております。

行事があるということとは関係ないが、ようやくナボコフの『プニン』(大橋吉之輔訳、新潮社)を読んだ。先月から数年ぶりに図書館通いが再開して、この本もそこで借りて読んだ。自分はナボコフの本については、借りて読むという考えはもたず、死力を尽くして買い求めて読むことにしているが、『プニン』はいい加減諦めた。唯一の訳書であるこの新潮社版は、ナボコフ邦訳書としてはまあまあ早い時期である、1971年の刊行。邦訳されているナボコフの書籍のリストを以前まとめたことがあるが(http://homepage3.nifty.com/loom/nabokov4.htm)、これを振りかえるまでもなく、『プニン』はナボコフ本のなかでも最も入手することが困難な書籍のひとつであると断言できる。現物には一度もお眼にかかったことがない。おそらく一万円とか大枚をはたかずに(amazonマケプレで見たら、一冊だけあって16000円ついていた)、ぐうぜん街の古本屋で出会って購入するという流れは、向こう十年はないだろうと判断して借りた。尤も、原書が読めるのならこれほど悩む必要もなくて、借りて読んでやろうという発想が起らなかった1、2年前、語学の学習熱があがり始めたころに渋谷のタワーブックスでヴィンテージ版を購入して電子辞書ひきひき読み、思ったより進むのでうれしかったが、けっきょくはじめの、プニンが間違った列車に乗ってしまうエピソードの最後までは読みきらず、邦訳で10ページ分くらい読んで、肩がこってそれきりになってしまっていた。新潮社版訳者の大橋氏は、ナボコフ本訳者のなかでは馴染みのない方で、氏の訳業でナボコフのなまえが出てくるのは後にも先にも本作きり。どうでもいいけれど、訳者あとがきの冒頭二行目でいきなり、<もっとも、第七章の3の中途にあるロシア語の詩につづく一、二行は、邦訳しても無意味だと思われたので割愛した。>というさらりとした言明があり、「割愛かよ!」と突っ込みを入れるとともにまだ本編を読む前だったから狼狽したけれど、翻訳だけ読む限りでは不自然を感じたり苛苛したりするところはなかった。

『プニン』は1957年、著者が58歳のときに出版された。『ロリータ』の刊行は翌年だが、執筆されたのはロリータ脱稿のあとだったそう。1953年から55年まで、断続的に四度に分けて『ニューヨーカー』に短編として分載され、57年に書き下ろしの章と一緒に単行本化された。したがってひとつづきのノヴェラとしても読めるが、プニンという人物の人生の局面局面を書いた連作のようにも読める。

上記のかんたんな書誌情報は、大橋氏の「訳者あとがき」と富士川義之先生の『ナボコフ万華鏡』で得たが、ついでに富士川氏の作品案内からもうひとつ引用すると、氏はプニンのことを<彼はナボコフが創造した作中人物たちのうちで最も愉快で魅力的な人物である。>と紹介している。ナボコフより一年はやくロシアに生まれ、革命を逃れて祖国を出、欧州を転々としてアメリカへ渡り、ウェインデルなる大学の独文科でロシア語とロシア文学を教え、糊口をしのぐ。肩書きは教授だが、仕事は終身のものでなく、不安定である。作者がプニンなる人物に与えた来歴をこのように紹介すると、彼は作者の生き写しのように見える。しかし後にも書くように、ナボコフの神経質でありながら腹の据わった感じと、プニンの暮らぶりは、だいぶ異なっている。冒頭の段落でナボコフは愛すべき主人公の姿をつぎのように、かれ独特の手つきで念入りに切り取って私ども読者に見せる。

理想的に禿げあがり、日に焼けて、剃刀のあともあざやかな教授の容姿を概観するに、まずあの大きな褐色の円頂(ドーム)にはじまり、ペッ甲ぶちの眼鏡(おかげであどけなくも欠如している眉毛の不在は遮蔽されていた)、類人猿(サル)のもののような上唇、重厚な頸部、窮屈そうなツイードの上衣に包まれた頑丈そうな胴部、に至るあたりまでは、なかなかの圧巻であるといわねばならなかったが、それから下の部分は、ひょろ長いだけの二本の脚(いまはフランネルのズボンをはき、組まれている)と、か弱そうな女々しい足と、いささか竜頭蛇尾の感をまぬがれない。

どうでしょう? 場面は、がらがらの鉄道の客車。しかも直後に明かされるように、よそでの講演のためにプニンが乗ったこの列車はじつは間違った列車で、それであとで大変な目に遭うことになるが、それを知っているのは作者と読者だけで、職務的義務をまっとうする乗務員が伝えるまで、そのことは主人公にはとうぶん明らかにされないのだ。冒頭から先が思いやられるが、上記では、これから本がさいごのページに来るまで、読者が見守ることになるだろう主人公が、頭頂部に始まって、だんだん下まで、パーツごとの大映しで紹介されていく。しかしこの主人公、そんな派手な演出で登場するほど、大人物ではない。そのおかしみ。映像的で、喜劇的なナボコフの筆が光っている。イメージに浮かんだのは大竹伸朗のジャリおじさんとか、映画版バットマンのペンギンとか。

まえにもシベリア少女鉄道を山車にして書いた(id:breaststroking:20070531#p3)ように、『ロリータ』も『ベンドシニスター』も『ディフェンス』も『透明な対象』も、『アーダ』はまだ読んでないし『青白い炎』や『セバスチャンナイト』はそうでもないけれど、ナボコフの小説は多くが悲劇的である。主人公と彼らにちかしい人々は、作中でさんざんな目に遭う。それらは教訓的な道徳話をするためでもなく、逆説的に人類愛をとくためでもなく、ただ単に、悲劇として悲劇である。ルージンの無敵の対局ぶり然り、ハンバート・ハンバートアメリカを股に掛けたドライブ然り、彼らはとちゅうまではそこそこうまくやるが、いつも大切なところでしくじり、悲劇の主人公になってしまう。その様は必然と言うよりも、小説の世界の壁をぶち破ってとつぜん現れた作者の見えない手が、主人公らが懸命にすすめてきた最善の手を勝手にならべかえて、何食わぬ顔でまた姿を消すようでもある。そうとは直接かかれることはないけれど、それをやられちゃ、どんな技や知恵をつかおうが、小説のなかの人々は作者に打ち勝つことはできないよ、という印象を受ける。

そういうなかで、『プニン』が富士川氏が紹介したような異色の作品だということは聞いていた。不幸な話ではあるけれど、ほかのものにくらべたらスケールがちいさい、ユーモラスな愛すべき大学教授の話と。で、読んでみたら実際そうです。『ロリータ』から『青白い炎』そして『アーダ』へとつながっていく、奇怪でありながら豊穣な妙味をたたえた実験小説の執筆のなかで、この小さな本のたたずまいはユニークでかわいらしい。『プニン』には、さっき挙げた作品で展開されるような、特筆すべき大仕掛けや超絶的技巧は見られない。時間が不意に過去へ戻ったりまた帰ってきたりというのは『ディフェンス』でも見せた技だが、『プニン』のそれは、あれほど鮮やかではない。また、語り手はどうもプニンと近しい人物であるらしく、1章で早々に<小生は彼の主治医である>と告白があり、以後かれの影がプニンの人生行路上に差し込むこともあるが、正体は後半まで行かないとはっきりしない。そういうのは『青白い炎』や『セバスチャンナイトの真実の生涯』をちょっと想起させるナボコフ的趣向だが、これは小説的興奮を喚起させるところまでは行っていない。小説の最後で、演出が意外な方向に結実しそうになるけれど、結局は線香花火みたいにあっけなく終わってしまう。また、作中、作者の分身とおぼしき、蝶の好きな大学教授(作者によく似た名前の)がちらっと顔を出すといった細かいあそびもあるが、これなども大きな仕掛けではない。

でも、小説は、そういうものがないと読めない、取るに足らない、つまらないものかというと、そういうものでは、ない。先ほど引いた文章からも判るように、『プニン』は小品として、とても良い。プニンの不器用さ、ツキのなさ、その反対に、自信があるときの得意な態度、友人をホームパーティで歓待するときの嬉しそうな様は、読者を「プニン萌え」とでもいうような心境にならしめる。これはナボコフの小説だろうか? しかし日常的に出来してはプニンを翻弄するアクシデントの数々、とくに終章、ハッピーエンドを期待させながらも一瞬で卓袱台返しする既視感あるバッドエンドの記述などは、やっぱりどうしようもなくナボコフなのである。技巧的描写が特徴であるナボコフ節も、『ロリータ』や『青白い炎』ほど全開とはいかないが、随所で愉しむことができる。好きなところをふたつ引用します。いずれも先ほどとおなじ1章。まず、公園で急激に体調を悪くするプニンが急にフラッシュバックにおそわれ、11歳の真冬の日曜日、熱が出てベロクキンという小児科医にかかるシーンに出くわしたところ。

医者の分厚い金時計とティモフェイ(かちゃくちゃ注:プニンのファーストネーム)の脈搏とのあいだに競争が行われた(脈搏がやすやすと勝利をおさめた)。それからティモフェイの上半身が裸にされ、ベロクキンは氷のように冷たい耳と紙やすりのような頭の側面をそれに押しつけた。一本足の動物の平らな足裏のように、その耳はティモフェイの背や胸の上を歩きまわり、あちこちの皮膚に固着しては、ふたたび重く荒い足どりで次に移っていった。

つぎは冒頭から、亡命先のアメリカで、帰化したけれどアメリカ人にはなりきれず、日々神経をすり減らして生活するプニンの人となりを描いた部分。だが、彼にはなかなか立派なところもある。

プニンはたぐい稀なほど手先の不器用な男だった。だが、またたくまにエンドウ豆のさやで一つ穴の笛をつくったり、平たい小石を池の水面に十度もはねるように飛ばしたり、こぶしでウサギの影絵を映したり(それも、目がまばたきする完全なウサギである)、そのほかロシア人の得意とするさまざまな隠し芸を心得ていたので、自分では相当に器用な人間だと信じこんでいた。彼はちょっとした装置や仕掛けが大好きで、一種の迷信的な喜びをもって、それらに惑溺していた。電気器具は彼を魅了し、プラスチック製品は彼を夢中にさせた。また、ジッパーを深く讃美していた。だが、電気時計のプラグを敬虔な気持でさしこんでおいても、真夜中の嵐が近所の発電所を麻痺させてしまえば、朝の時間はめちゃめちゃに狂ってしまう。眼鏡のフレームは真中でぽきりと折れ、彼の手にはふたつの同形のものが残る。彼は復活の奇蹟でも起らないものかと期待しながら、そのふたつを接合させようとあいまいな試みをくりかえす。紳士がもっとも頼りとするジッパーも、狼狽と絶望との悪夢のような瞬間に、うろたえる彼の手もとではずれてしまい、締らなくなってしまうのだ。

ほほえましい。ちなみに悪のり気味の作者が、真実をプニンにつたえるため、職務に忠実な車掌を客車に送り込むのはこの2ページあとだが、彼がwrong trainに乗っていたことを知ったときのリアクションを紹介して今日はここまで。

「だいじな講演があるんです!」とプニンは叫んだ。「どうしたらいいだろう? はめつです」(※「はめつ」に傍点。原文では"cata-stroph"となっていてeが足りない)


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