『文學界』二月号をしゃぶるように読む

文學界』二月号掲載の小林信彦「うらなり」読了。期待した以上に面白かった。『袋小路の休日』系統の味わい深い作風だ。『ぼっちゃん』のうらなりが年をとって明治、大正、昭和に亘る人生を回顧する。しかし水村美苗のような二次創作的アプローチではなく、堂々の小林文体による一人称。おれ、うらなりって誰だっけなあ、ぼっちゃんじゃないし、なんて弛緩した頭で読み始めたがするする話に引き込まれた。

うらなりは、小林氏の小説ではおなじみのタイプである、落ち着いた厭世者として書かれている。観察はすれども対象と深い関係を取りむすぼうとは決してしない。自分を疎外する現実を観察することはできるが、それに対抗する術と意志を持たない。うらなりは漱石的な人物だが、それ以上に小林文学にぴったりの人物でもあったのだ。

いろいろ書こうと思ったけれど、この作品を的確に論じた文章を見つけたので言うことがなくなった。
http://d.hatena.ne.jp/vanjacketei/20060107
「うらなり」は、戦争ものというライフワークに、『東京少年』で一応の区切りを付けた小林氏が、リハビリというか息抜きに書いた中編なのかと思ったら、ものすごく長い間あたためていたプロットだったというのが意外であり面白かった。

どうでもいいが、さいきん『新潮』や『群像』が、デザインなどもひっくるめて、生まれ変わろうとしているからか、このごろ『文學界』の地味さがいっそう際立ってきている。表紙カットからして、高橋信雅による、池か何かのほの暗い水面の写真。表紙も文字がほとんどなくて、記事タイトルは「うらなり」と特集の「至高のモーツァルト」しか載っていない(特集「至高のモーツァルト」ってまた、中島梓あたりが見たらなんていうかね)。文芸誌の時流に逆行するようなシブさ、まるでちょっとしたオブジェのようだ。これは恐らく二誌への異議申し立てでもあるのだろう。巻末の「鳥の眼・虫の眼」でも新人を積極登用する『新潮』を批判している。そしてこういった姿勢はおれは嫌いではない。実際、迷った末に小島信夫保坂和志・青木惇悟という文学的遺伝子で繋がった三世代が会する『新潮』でなく、こっちを選んだわけだしね。

今月の『文學界』は、「うらなり」のほかにも、仲正昌樹<ネット・サヨクに糾弾されて(赤○大介ってまだ現役で活動していたのか。おれが高校の時、どの講演会やトークイベントに行ってもその姿を見かけたものだった)<片田舎の大学教師くらいが自分の分にあっていると思い切って、地元に引きこもれば、鹿鳴館ライオンズクラブみたいな気分のロンダンな人々との"人間関係"など気にせず、気楽に仕事ができる。>と書いて連載を結んでいる「実戦的思考序説」や、元外務省の佐藤優による柄谷行人近代文学の終り』書評<評者は現役外交官時代に情報(インテリジェンス)業務に従事することが多かった。その当時、柄谷行人氏の著作にはたいへんお世話になった。><……柄谷氏の言説は、国際情報屋たちに感銘を与えた。暗号電報で柄谷氏の言説が、各国情報機関の本部に伝えられたと思う。>など、実はけっこう読みどころが多いのだが、それ以上にもうひとつ、純粋な意味で注目すべき作品が載っている。筒井康隆「巨船ベラス・レトラス」の第十三回がそれだが、メタフィクションと呼ぶには単純かつ非技巧的すぎる強引さでもって作品世界に現れた作者・筒井康隆氏による、北宋社社長渡辺誠が筒井氏の旧作を集めた短編集を無断で編集・出版していたという事件への告発に、激しい興奮と怒りを覚えた。

http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY200601100296.html

文壇、文学賞のエグさを戯画化して批評した名作『大いなる助走』の平成版として始まった「巨船ベラス・レトラス」、おれはこの一年しっかりとは追っていなかったけれど、今回、小説のなかで現実の筒井氏が現実の著作権違反の出版社を告発することが、それまで続いていた作品に対して、文学的にプラスの効果を上げることはまずないだろう、ということは判る。恐らく単行本になった時、今月の部分は、だいぶ修正が入っているだろう。あるいはまるまる差し替えてしまうかもしれない。しかし、それを理解した上で、筒井氏が、どこかのエッセイや、それ専用の場所を借りての論争スタイルでなく、『大いなる助走』の後継作のなかでこの種の告発を行ったということはやっぱり重要だ<わたしがここへ出てきたのはこの作品のテーマにも関係するある事件が自分の身に起ったからだ。>。もって回った虚構を捨てて、現実をナマのまま書くことが、現代の文壇や純文学をめぐる状況をまるごと書き尽くそうとするこの小説に何よりふさわしいと思ったのだろう。これを力ずくの小説的実験と取るか、あるいはメタフィクションという看板を出してはいるけれど、筒井氏が小説よりも現実のナマっぽさを選んだと取るかは人によるだろう(少なくともおれは小説としては読まなかった。ドキュメントとして読んだ)

ということで、『文學界』二月号では、奇しくも小林信彦筒井康隆の両雄が相並んでテンションの高い仕事を披露している。それだけでおれは嬉しくて仕方がない。