ノベライズから浮かび上がる『デスノート』の革新

札幌駅そばのなにわ書房で買った西尾維新DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』(集英社→amazon)を読み終えた。

デスノート』を仮に、二つの高度な知性によって演じられる脱走と追跡のサンバだとするなら、このノベライズは『デスノート』ではない。何しろ、肝心のデスノートが出てこないのだ。160ページちょいの薄い本であるが、造本はデスノートそのものを模した造りになっていて雰囲気があるのに、小説にノートが出てこないものだから面白くない。また、中盤から、犯人が死神と「目の取り引き」をしていないにもかかわらず、生まれつき「死神の目」を持っているということが明かされて、多少デスノートの趣向が反映されているなと感じるものの、それもあまり本編に絡んでこずで、殺人事件が行われた密室を延々と竜崎と主人公の南空ナオミが地味に検証して回るというシーンが続いて、それも退屈である。それに南空にそれとなくヒントを与え続ける探偵・竜崎も、過剰にデフォルメされて、なんだか通俗的なキャラ萌え小説みたいになってしまっている。だいたい、竜崎が<「折角美しい容姿をお持ちなのですから、自己プロデュースは大切にしてください」>とか、<「……考えごとをするときは、この座り方がお薦めですよ」「……推理力四十パーセントアップです。是非、試してみてください」>なんて言うか? 原作から思い切ったアレンジを加えることが成功につながることもあるけれど、あまりに強力な原作を前に、西尾維新流のペダントリーも冴えない。それに文章がなんというか、ゆるいのだ。背伸びして緊密でクールな文体でいこうという意志は感じるのだが、それが実現できていなくて、却って力不足と緩さが出てしまっている。序章は緊張感があって良いんだけれど、長続きしなかった。<そんなことをして南空ナオミツンデレだという噂が立っても困る>とか、原作が好きな人はあれれって感じじゃないか。

…というのは、オチを読む手前までに持った感想なのだが、オチを読んでここの着想は面白いなと思った。ノベライズって、当然原作のファンが主要な読者になると思うのだが、彼らには多かれ少なかれ、共通して「おれはこの作品についてくわしい」とか、「おれの好きな作品なんだから、期待を裏切ってくれるなよ」といった、作者をナめてかかるというか、ある種の傲慢さがあると思う。もしくは、「原作を読んでいないでノベライズを読むやつより、おれの方がほんとうの読者」みたいな意識があると思う。西尾氏が考案したオチは、その思いこみを逆手にとる。つまり、『デスノート』の原作を読んでいる人間、詳しい人間の方がテキストに騙されてしまうという、原作を読んでいる人と読んでいない人との関係の逆転が起こるような仕掛けにしてある。そこは面白いなと思った。

で、以下が読み終えてからしばらく考えていたことである。

このノベライズは『デスノート』ではないと言ったが、その理由は上で書いたような、デフォルメ化されたキャラ造形への不満などもあるが、一番にはスピード感の欠如にある。二人して密室でちんたらちんたら推理してんじゃねーよという不満である。とっとと密室を出て、スパークするくらいの知恵比べ合戦を見せてくれよ、という感じである。しかし、この希望は満たされないまま小説は終わる。

しかし考えてみたらこの不満は、西尾氏に対してというよりも、小説というフォーマットに対してのものだという気がする。どういうことか。

週刊マンガ誌には固有のスピード感がある。それは出版ペースの速さのことでない。読者が雑誌に向かうとき、否応なく発生させてしまうスピード感のことである。ふつう我々は週刊マンガ誌をゆっくり読まない。たとえば、我々が週刊マンガ誌を読むのは、コンビニにおける立ち読みであったり(限定された時間、店員や周りの客の存在)、通勤通学の電車の中とかであったり(限定された時間、固定された身体)、あるいはトイレの中であったりする(限定された時間、つぎの人間がドアをノックする可能性)。つまり週刊マンガ誌は通常、一日の終わりに、静かな部屋で心を落ち着けて吟味して読むというようなものではなく、たいてい、何か外の環境や状況に急かされながら、いそいそと読み飛ばしてしまうものである。つまり、週刊マンガ誌を読むとき、つねに外から要請されたスピード感が自然発生する。重松清が週刊誌について言うような、ぱっと消費されては読み捨てられてしまうスピード感がここにはある。週刊マンガ誌に載るマンガはすべてがこの前提の中で、読まれるもの読まれないものに日々瞬間的に峻別されていく。作品自体の絶対的な質以前に、このスピード感とマッチしているかどうかが重要になってくる。ウィンストポンミニット君は、タイでは漫画家にはなれないと言った。日本でマンガがここまで来たことの要因の一つとして、社会が(つまり、通勤や長いモラトリアムといったシステムが)マンガを歓迎するような形になっていたということがあるだろう。社会の助成があってマンガは産業化した。

このメディア特有のスピード感を逆説的に浮き彫りにしたのが、『デスノート』である。普段立ち読みしたり、電車で読んでいる時には考えないような、「メディアが要請するスピード感」は、『デスノート』を読むとき、否応なく前景化してくる。それはページをめくる指と脳のジレンマという形で立ち現れる。いつもの週刊マンガを読む(処理する)スピードで処理したがっている指と、情報が処理しきれないために、指の独断専行を許さない脳みそがあげる激しい火花、あるいはうれしい悲鳴。それが連載時の『デスノート』が持っていた特異な魅力、読書体験ではなかったか。

つまり『デスノート』は、週刊マンガ誌を読むときに我々が気づかない「週刊マンガ誌を読む身体」というものを強烈に気づかせる、読者の身体に訴えかけてくる作品となった。『デスノート』は、Lとキラが演じる脱走と追跡のサンバであると共に、脳と手が演じる苦くも心地よいサンバでもあったのだ。連載中、リアルタイム派だとか単行本派だとかいう呼び方があったけれど、毎週ジャンプの連載を追っていく良さというのは、ストーリーにつかず離れずで伴奏して行く快楽だけじゃなくて、この、週刊マンガ誌というフォーマット(じっくり吟味して読むのでなく、限られた時間内でパラパラと読み捨てる)が読者に強いる隔靴掻痒なディシプリンが新鮮だったというのもあるのではないか。