きれぎれ文学考察2 『「共感覚は文学にどのように作用するか 岸本佐知子、ナボコフ、ゴーゴリを手がかりに」という文章のはずだったが』


『SIGHT』(ロッキング・オン)の12月売りの号は、ここ何年か北上次郎大森望による年間のエンターテイメント小説を振り返る対談(「BOOK OF THE YEARエンターテイメント編」)を載せている。

毎年、おなじエンターテイメント畑でありながら全く嗜好がことなる二者のすれちがいぶりが面白いが、今年は大森が解説を書いているクリストファー・プリーストの『双生児』(早川書房)をめぐって、二人の文学観のちがいがぶつかり合っていて、肩のこらない対談だが面白かった。

大森 面白くないですか?
北上 ふーんと思いました。だから読みながら考えるのが好きな人がお読みになればいいんじゃないでしょうか。
大森 ははは! その指摘は本質を突いていますね。北上さんは読みながら考えるのが好きじゃないんだ。
北上 エンターテインメントの読者としては何が書かれているかを考えるんじゃなくて、そこから派生するような様々なことを考えるわけ。
大森 こういうことが僕の身に起こったらどうしようとか、そういうことは考えたいんだけど、この小説はどうなっているのかなんてことは考えたくない。そこはわかりやすく書いて欲しいと。

『SIGHT』VOL.34

娯楽寄りの北上氏がちょっとコケにされすぎている嫌いもあるが(冲方丁の『マルドゥック・ヴェロシティ』をまったく受け付けなかったという北上氏に、<脳トレだと思えばいいんですよ。頭使わずに読めるものばっかり読んでると脳が老化しちゃいますよ>って痛烈すぎないか)、このような根源的なちがいがあるから、このあとの方で岸本佐知子の『ねにもつタイプ』(筑摩書房)を大森氏が紹介するときも、北上氏はものすごーく言葉すくない。

で、大森氏は、北上氏に岸本本の面白さを伝えるために、『ねにもつタイプ』にある「かわいいベイビー」という文章を対談中で読んで聞かせるのだ(やっぱり北上氏はピンとこないのだが)。長いけれど孫引きします。

大森 ……<赤ん坊>という言葉は、字面だけ見ると非常に不思議な言葉で、もし赤ちゃんだということを知らずにいきなり<赤ん坊>という言葉を見たら、どんなものを創造するか。<<よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身が真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている。夜行性で「シャーッ」と鳴く。凶暴な性格で、小動物や人を捕らえて生で食らう。後ろ足止で立ち上がると体長十五メートルほど、大きいもので五十メートルにもなる。/嫌すぎる。>>

このような感覚に共感できるかどうかで、岸本氏の文章の面白さはだいぶ変わってしまう。最初のエッセイ集『気になる部分』(白水社uブックス)にはつぎのような文章がある。

 ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、ぜんぜん別のイメージが現れることがある。……「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速二百キロぐらいの猛スピードで泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満する。

「バグが出る」

よく「妄想するのが好き」とか「趣味は人間観察」という女性がいて、半分はウザったいけれど、あと半分の人の頭のなかではこのような作用が日常的に起こっているのだろう。チャーミングだ。あと、岸本氏も書いているが、ある漢字をじっと見つめていると、普段自明であるはずの意味や書き方がグラグラ揺れてきて、頭の中がパニックになるということも、似たような経験としてある。文字が単なる物質に分解されてしまうという感じがする。ヒマな時しかやってみたりしないが。

ちなみに岸本氏は、現代の作家では筒井康隆と並んで、町田康に強い尊敬を抱いていて、「言葉そのものへの強い執着」という点で二人は共通しているから、納得できる。『気になる部分』だけでなく、ことし文学フリマで売っていた豪華なミニコミ『書評王の島』での豊崎由美(責任編集)によるインタビューでも、町田康を<本当の天才>として称えている。

あとで重要になってくるので、岸本氏の特異な感覚についてもう一つ引用します。「このあいだ、レストランで盗み聞きした会話」という題の小文だが、完璧に岸本味のショートショートである。だが、先に引用した内容と同様の神秘的(?)体験をくわしく書いている。

レストランで聞こえてきたある女性の会話。彼女は、子供のときコーヒー味のキャンディが嫌いだった。だがあるとき、成り行きでスキップしながら舐めてみた。そうしたらキャンディが<急に本当においしくなった>。

口の中いっぱいに本物のコーヒーの味が――その時はまだ本物のコーヒーを飲んだことがなかったはずなのに――インスタントでない、豆から挽いて煎れたコーヒーの強い香りが口いっぱいにあふれて、同時にその豆がまだコーヒーになる以前、どこか熱い国の太陽にあたためられて真っ赤に熟れていく時の実の気持ちや、それを摘んだ知らない国の知らない女の子の気持ちや、女の子のうなじに照りつけていたじりじりするような日光や、そんなものまでが一瞬のうちに、ものすごくリアルに感じられたの、びっくりしたわ。そして嬉しかった。

ちょっとプルーストっぽい。で、以上の箇所を味読していて、岸本氏は「共感覚者」なのではないかという仮説を持った。といっても専門家でないので、思いついてから慌ててジュンク堂古書往来座で専門書を仕入れてきた(探し物がきちんと見つかるなんて、古書店のくせに往来座はすばらしい。だがちょっと寄ったつもりが、ナボコフデイヴィッド・ロッジのペーパーバックが山積みされているのを見つけて、ついでにぜんぶ買ってしまい、そのほかにも富岡多恵子とか谷沢永一とか古山高麗雄とかまで買ってしまい、トータルで五千円以上してアワ吹いた)。


共感覚とはどのようなものか。共感覚者が書いたノンフィクションから引用する。

 共感覚とは、五感のうちの一つが刺激されると、その感覚に加えてもう一つ別の感覚も反応するという現象である。つまり「共感覚者」たちは、たとえば、音に色が伴うとか、味に形が伴うといった、奇妙に混在した知覚現象を体験する。……彼(かちゃくちゃ注:共感覚者マイケル・ワトソン)の場合、おいしき調理されたチキンの味は、手に何かとがったものが触れているような感覚をもたらしたが、うまくいかなかったものであれば、丸いものを感じたそうだ。また別の共感覚者は、「フランシス」という名前には「豆の煮込みの味がする」と説明する。芸術家のキャロル・スティーンは、ひどい頭痛は「ぎらぎらするようなオレンジ色」、比較的穏やかな頭痛であれば、「ただの緑色」と表現する。

『ねこは青、子ねこは黄緑 共感覚者が自ら語る不思議な世界』パトリシア・リン・ダフィー著 石田理恵訳(早川書房

仮説は立ててみたものの、科学的な定義の上では、岸本氏は共感覚者ではない。共感覚とはある感覚がきっかけになって異なる感覚がもたらされるものであり、岸本氏の例は、ある言葉があらたな言葉を想起させたというだけのことだ。せいぜい「赤ん坊」という言葉が視覚と聴覚を刺激し、別個のイメージをもたらしたと言ってみれば、多少、「共感覚に似た、空想力による何か」と呼べるものになるのかもしれない。

ここで一旦回り道をして、では文学における本当の共感覚者にはどのような人がいたのだろう。いま我々が読める共感覚について専門の翻訳書は四五冊程度しかないが、ジョン・ハリソンの『共感覚 ―もっとも奇妙な知覚世界』(松尾香弥子訳,新曜社)は、なかでも学術寄りのアプローチを取っていて、共感覚を網羅的に理解することができる本だ。このなかで一章を割いて、過去存在したさまざまな共感覚を持った芸術家の名前とエピソードが出てくる。

カンディンスキーエイゼンシュタインなど、それぞれ興味深いが、今回は文学に共感覚がどう作用するかということなので(そうなのだ実は)、取り上げるべきはわれらがウラジーミル・ナボコフになる。

そこで紹介されているのが、ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』(大津栄一郎訳,晶文社)で、そこでナボコフは、具体的に自身の共感覚について書いている。本が手元にないので、「tomokilog」から孫引きさせていただきます(また、最近ナボコフ共感覚をフィーチャーした、ユニークな絵本がアメリカで出版された。ブライアン・ボイドが序文を書いてお墨付きを与えている: ナボコフのおもちゃ箱 http://www10.plala.or.jp/transparentt/toybox.06.html

http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2006/07/speak_memory_by.html

……私は色聴現象の立派な体験者でもある。もっとも聴という字を当てるのは正確には正しくないかもしれない。色彩感が生れてくるのは、文字の輪郭を思い浮べながら口で発音してみるときだからだ。たとえば、英語のアルファベット(以後断り書きがなければ英語のアルファベットのことだが)の a の字は、長い風雪に耐えた森の持つ黒々とした色をしているが、フランス語の a の字はつややかな黒檀の色を思わせる。この黒のグループには、他に無声音の g(たとえばタイヤの色)や、r(煤でよごれたぼろの切れはし)などがある。白の仲間には、オートミル色の n や、ゆでたヌードルのような色の l や、象牙の背のついた手鏡といった感じの o などがある。そして、フランス語の on(「人」の意)に出くわすたびに、小さなグラスになみなみと注がれ、表面張力でやっと持ちこたえている酒が目の前にちらついて、われながら狼狽する。……

この記述によれば、ナボコフ共感覚とは、アルファベットの文字にそれぞれ固有な色彩が付いているのを感じられるということで、それは文字の輪郭および、発音するときの口腔の形や動きの掛け合わせによって、決まるということらしい(ちなみに、ここでは触れないが、あのランボーも全く同じタイプの共感覚者だった http://hb8.seikyou.ne.jp/home/pianomed/41.htm また、ナボコフの妻ヴェラも、息子のドミトリも、そしてナボコフの親も共感覚者だったそうだ)。


ここでナボコフが小説や評論のなかで繰り出す芸術的な言葉遊びを、彼が生まれつき持っていた共感覚と結びつけて論証できれば、この文章の目的は達成だ。だがしかし、ナボコフが文字や単語から得た別個の感覚とは、色彩(視覚)だけだった。ナボコフの小説はとても色彩が豊かで効果的に使用されているから、ここで「共感覚ナボコフの作品における色彩と言葉のむすびつき」というテーマで一文を草しても面白いかもしれないが、何か驚嘆するような知見が得られる気がしないんだな。

なのでここでは共感覚というものを、特殊な先天的才能のことではなく、一つの創作をやる上での方法論のひとつとして拡大解釈することにする。

判りやすくいうと、冒頭に紹介した岸本佐知子が短いエッセイでやっているような、あるワードからまったく異なったイメージを頭の中で抽出する、その技を「文学の共感覚」と呼びたいのである。

そうすると、共感覚は何千人に一人の超能力ではなくなる。小説が読める、ことばに強い興味を持っている人であれば、だれでも発信することができるし、受け取れるものになる。先の「かわいいベイビー」であれば、岸本さんは文学の共感覚を働かせてものを書き、大森氏はそれを受信するために、文学の共感覚をつかったということになる。文学的共感覚のキャッチボール(一方通行だが)とでも言おうか。

岸本氏のエッセイはとてもリーダブルで、ことばに興味がある人であれば、きっと誰にでも楽しめる。が、文学の共感覚におけるキャッチボールは、このような易しいものばかりではない。クルーンが160キロオーバーのまっすぐを投げこんでくるような、ハードな文学的共感覚の発信というものもある。そして、それを受け止められる人(つまり、読書の中で立ち止まって、味読できる人)は、当然のように限られている。

メジャーリーグの相性バッチリのバッテリーといったほうが良いか。そんな高度な文学的共感覚の送受信を、おれはナボコフの本に見た。ナボコフによる奇妙な評論、『ニコライ・ゴーゴリ』(青山太郎訳,平凡社ライブラリー)である。


「外套」「鼻」のゴーゴリ(1809-1852)と、ロシアの亡命貴族ナボコフ(1899-1977)。生まれた時代も重ならない二人だが、ナボコフゴーゴリの(一部の)作品と、人間を愛した。人の批判に極端に敏感で、何かあるたびにロシアを飛び出してヨーロッパに逃げてしまうゴーゴリ。母親から金をだまし取って旅費に充ててしまうゴーゴリ。『死せる魂第一部』脱稿とともに、作家としての才能を枯渇させ、苦しむゴーゴリ。宗教に傾倒し、マトヴェイという神父の創作上の差し出がましい助言に翻弄されるゴーゴリ。そして第一部から十年経ち、ついに書きあげた『第二部』『第三部』を暖炉に投げ込み、明くる年に狂死するゴーゴリ

ゴーゴリの人生はまるでナボコフの小説に現れる、破滅的なヒーローのそれにそっくりだ。ただ、ナボコフゴーゴリを自分が作った人物に似ているから共感を寄せているのではなくて、キャリアのごく短い間でものした、『検察官』『鼻』『外套』、そして『死せる魂 第一部』という傑作を産んだ、孤独で卓抜した先達として愛しているのだ。

これらの作品について、ナボコフは深い愛と洞察を持って分析を進めていく。その手段とは、何も学術論文や事典などを要するものではなくて、恐ろしく透徹した「読み」にすぎない。ロシアの農奴解放運動を助けた文学者という政治的色眼鏡をはずし、ただゴーゴリの文章を読み込んでいくこと。ナボコフがここで行っているのはそれだけだ。後年、日本を代表するゴーゴリアン(というか、生涯「外套」に取り組み続けた人)後藤明生も『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』(福武文庫)で、かつて日露を支配していたイデオロギー的な視点で書かれたゴーゴリ論を切って切って切りまくっている。

ナボコフは亡命後、糊口を凌ぐためにいくつかの大学で教鞭を執った。その仕事は『ロシア文学講義』『ヨーロッパ文学講義』(TBSブリタニカ)、『ナボコフドン・キホーテ講義』という三冊にまとめられている。だが『ドン・キホーテ』のセルバンテスを除けば、一冊がっぷりとナボコフが取り組んだのはゴーゴリしかいない(あとプーシキンのオネーギンの注釈本というのもあるにはあるが)。ナボコフにとって、ゴーゴリと、それ以外の作家のちがいとは何だったのだろう。

(もう四分の三は書いたが、息切れしたのでこの項つづく)