日刊大衆決断 七夜連続企画2/ヘンな文章が好きだ3 N森さんの新作「ただ坐ることに打ち込む」第一回


●ことのはじめに

以前かちゃくちゃは彼女を「名古屋のN森」と紹介したが、「N森」は「名古屋近傍」の人でないようなので、以後「愛知のN森」とする。

あるいは本人に言わせれば、「愛知」でもなく、「三重と愛知の県境」、もしくは「三重のN森」だと名乗るかもしれない。しかしそこまでは付き合いきれないので、ここでは「愛知のN森」でいい。

●「愛知のN森」とは

とにかく愛知のN森の書いた文章にネットで出くわし、それにほれ込んだかちゃくちゃは、すぐさま彼女との交流を開始したのだ。それがことの始まり、およそ2年前のことだ。以来かちゃくちゃは、電話や実際の対面上で、彼女の文章に品評を加えたり、彼女が読んだらよかろうと思う小説を勧めつづけた。

それは思えば、光を一切に遮蔽する曇ったダイヤを、延々と練磨するような作業であった。しかしN森はそれに屈しない特異な才能、あるいは天性の体質を持っていた。それは読めば読むほどテキストを吸収して実作を上達させる能力というものであった。また、アスペルガー症候群を想起させるような、ずば抜けた記憶力も眼を引いた。細部を一切忘却しない強靭で人間離れした記憶力は、私小説をベースにした彼女の作品の随所に作用した。日本語の基本的な使用法において、ゴリラのような未習熟を見せながらの、この高度な記憶能力と学習能力は、かちゃくちゃには、ある種異常に映った。

まるで乾いたスポンジのような吸収能力を彼女はつねに発揮し続けた。ブックオフの100円棚の隙間に生息していたN森は、完璧に異なる文学の世界に牽引され、辺りを眩しがる時間さえ与えられず、練磨されつづけた。かちゃくちゃは夢中になって電話や実対面での作品添削、課題図書の投げかけを行いつづけた。

その間、与えられたテキストはどのようなものだったろう。それは、ナボコフの『ディフェンス』であったり、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』であったり、あるいはディックの『暗闇のスキャナー』、レム『ソラリス』といったSFであったりした。小島信夫の『残光』、『抱擁家族』を含む諸作や、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、作中に登場するような『百年の孤独』も彼女はクリアーした。19世紀イギリスの『トリストラムシャンディ』や『荒涼館』はそれほど気に召さなかったようだ。自由になる時間はたくさんあった。N森はある種の現代における貴種流離譚のひとであったから(編者註:この部分の文意を明瞭にすべく訂正を編者はもとめたがかちゃくちゃはそれを拒否した)。彼女は新古書店の100円棚の人から市立図書館の人となり、鉛筆書きのリクエストカードをつかって、司書や運搬人を自在に操っては、推薦図書をゆったりとしたスピードで、たゆまず貪欲に消化した。

●「ただ坐ることに打ち込む」とは

『大衆決断』(http://lot49.lolipop.jp/mt/)ではすでに5ヶ月前、彼女の短編「錆鼠」(さびねず)を公開している(http://lot49.lolipop.jp/mt/archives/2008/04/n.html)が、今回はそれにつづく短編、「ただ坐ることに打ち込む」を公開する。発表は本サイトが初出である。

逃れられない家族の血の問題を扱った本作は5つの場面に分かれ、彼女が執筆時読んでいたラテンアメリカ文学からの影響をみることができる。フォークナー〜中上的な血の問題を扱いながらも、マルケス的な突拍子もなさ、カフカ小島信夫的な不気味な笑いを湛えた作品である。

以上かちゃくちゃ記。以下、愛知のN森による「ただ坐ることに打ち込む」を掲載す。


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●「ただ坐ることに打ち込む」1


 あっ、友達の石澤さん? と思ったら向井秀徳じゃった。山で野宿する体力のなくなった私はザゼンボーイズのライブくらい行ってやれと思って、一時間弱電車に乗ってはるばる名古屋の街中まで出てきたのだった。ステージの前で祭りセッションがはじまるのを待っている。若者がうごめいている。

 しかし名古屋ってのは遠いな。体力のもう少しあった頃、名古屋というのはもっと近くに思えたはずなのに。

 先日、私の父が誕生日を迎えたとき、となり町の大府市というところにある、美味しいと評判の回転寿司屋に連れて行った。
 私の運転する車の後部座席で、老いぼれの父は、ガラス窓に両手のひらをくっつけて、まるで遠いところへ旅でもしているように、変わり行く風景を目新しそうに眺めていた。彼の妻は何のことはない、まだ自分たちの住む市内すら抜けていないとのだと夫に言い聞かせたが、車に乗っている時間が長くなればなるほど、見知らぬ土地に連れて行かれる彼の表情はいかにも不安気になっていった。

 寿司屋はガラ空きであった。客の入りを見誤った職人たちは、きらびやかなネタをコンベヤーにひしめかせて、しかしロスをどうにか避けようと、マグロ一貫とタイ一貫を一皿に乗せた、「紅白握り」なるものを編み出して、販売を促すのに必死であった。母親はそれを父の目の前に置き食べろと言った。
 父は赤か白かのどちらかを手に取っていくらか咀嚼し、口を真一文字にして、美味いとも不味いともつかぬような顔をした。海で生まれた男であるから、寿司屋にでも連れて行けば喜びもすると、娘は軽く考えたが、しかし寿司屋に行こうと言い出したときから、店に到着することこそが目的化していた父からすれば、それを達成した以上、今度はどう無事に帰宅するかで頭がいっぱいなのだった。何かを食べようという気になんてとてもなれない。
 赤、白、赤、白、と寿司は順繰りにまわりつづけている。久々の寿司にすっかり夢中で、誰の祝いであったかすっかり忘れはじめた彼の妻は、赤、白、赤、白、次々と寿司を口の中に押し込み、いかんせん彼女の奥歯に詰めてある部分入れ歯の調子が悪かった、難儀そうな顔で詰め物を吐き出し、テーブルの上に置いておく。義歯と人口の歯茎の間には、タイの白い肉片が挟まって、目がもうろくしはじめていた母は、入れ歯の付着物を、認めることができないのであった。
 入れ歯をテーブルの直に置くことに、生理的に強い嫌悪感を私は覚えた。母にやめてくれと言ってやりたかった。その際私は、入れ歯に目をやり、それを指差し、彼女に強く物言いするだろうが、その入れ歯に関われば、私の目玉や人差し指すらも、汚されてしまうように思えるのだ。それで私は直接彼女を責め立てず、入れ歯が視界に入ってこないよう気を配り、せめてその醜態ぶりについて父に共感してほしいと、賛同を求めるが、とにかく彼は帰り道ばかりが気がかりで、それどころでないのであった。
 と、その時、彼のいっとう好物に違いないハマチがやって来た。わたしは父の肩を叩く。お父さん、ハマチが来ましたよ。父の目線がゆっくりとそれに向かった。コンベヤーの上でカタカタと流れ行くのを、静かに見つめる。うんざりしてくったりとなった父親を、どんな活魚も喜ばせることはできない。母は、まだかろうじて残っている自分の歯で、赤、白、というのを続ける。彼女もまた海で生まれた女であったから、魚がうれしくて仕方がないのであった。ところでわたしは七千五百円払った。(以下続く)