本はさいきん高いか

書物狂いには<書痴><書狼><書豚>の三段階があって、病膏盲の度合いを示すとされる。その最高段階である<書痴>というのは尋常一様の本好きでは済まないのであって、犯罪レベルに達する必要があるらしい。かりに世界に二冊しかない稀書中の稀書を手に入れたと仮定しよう。それだけでも相当の執念だが、<書痴>の資格はこれだけでは不十分で、残る一冊を手段を問わず入手して焼却し、自分の手中のものを天下一本にするに至って、はじめて<書痴>と認定される。大半は盗むか、所有者を殺す仕儀になるから、犯罪レベルにたかまる。わたしも書物については狂人スレスレであることを告白するが、それでも、とても<書痴>になるだけの器量は生れつき持たないことを残念ながら認めざるをえない。たかだか<書狼>の下というところであろうか。

由良君美ベーメとブレイク」『椿説泰西浪曼派文学講義』(青土社、1972)



なんで金が無い、金が無い、とこぼしているんだ。嘘だろ、金なら多少、あるだろ、と言われる。しかし実際ない。なぜか? 本を買うからだ、本を買うと金がなくなります、そう応えると決まって相手は、嘘だろ、本なんか大した値段しないだろ、いくら買っても大したことないだろ、と言ってくるので、話は大概、それ以上発展的に進まない。確かに文庫なら安いやつはまだ安い。こないだも、中村うさぎの文庫、たしか300円台だった。すごく薄かったけれど。300円台なんて、何かなつかしい。昔みたい。だが、その反対に、単行本はどうか。もしくは、刷りの少ない文庫はどうか。ちかごろ富みに、やたらと本が高くなってやしないか。眼が肥えてきて、ほしい本がしぜんと高い本になっているということか、あるいは、学生のときみたいにカツカツな綱渡りでなくなってきて、次第に高い本を躊躇なく買うようになってきたせいかもしれないが、いやいや、じっさいに高い本が増えている気がする。それも、いままで高くなかった分野の本が。

話に具体性を持たせたい。試しに、ちょっと自己満足的だが、ことし買った本で高いやつを蔵書録から探してこよう。でも漏れが数え切れない、不完全なリストなので、実際はもっとちがうのがあるかもしれない(こういうのって、底が知れちゃうな〜、お里も知れちゃうな〜、怖いな〜、予防線張っとこ、って心理もゼロではないさ)。あと、実際いくらで買ったかを優先させたから古本で買ったやつは入っていません。ぜんぶ入れると稀覯本大会みたいになっちゃうし。

1.LONGMAN Advanced American Dictionary(PEARSON Longman) 3990円
2.栗原裕一郎『盗作の文学史』(新曜社) 3990円
3.大友良英『MUSICS』(岩波書店) 3200円
4.古谷利裕『世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社) 2730円
5.ばるぼらNYLON100% 80年代渋谷発ポップ・カルチャーの源流』(アスペクト) 2520円
6.中原昌也中原昌也作業日誌 2004→2007』(VOID) 2500円
  M.ジョン・ハリスン『ライト』(国書刊行会) 2500円
8.クリストファー・プリースト『限りなき夏』(国書刊行会) 2400円
9.平岡篤頼『記号の霙』(早稲田文学出版会) 2200円
  武藤康史『文学鶴亀』(国書刊行会) 2200円

以下、11位タイに、2000円で、アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(早川書房)、アレックス・クチンスキー『ビューティ・ジャンキー 美と若さを求めて暴走する整形中毒者たち』(バジリコ)など何冊か並ぶ。

…あれ、おかしい。思ったより大したことないな。絶対もっといろいろあるはずなんだが。しかも1位、辞書か。いかん、これじゃ説得力がない。(遠ざかる気配、やがて向こうから、本箱をひっくり返す音、さっきより急いで聞こえる足音)三浦俊彦の変態本『のぞき学原論』は400ページ越えなのに1995円か、やるなあ三五館。あ、しかもこれ、買ったの去年だ、対象外だ。菊地・大谷の『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』(エスクアイア マガジン ジャパン)は4980円、きょう見つけた高山宏の『アリス狩り 新版』(青土社)は3780円で大したものだが、どちらも気持ちは前向きなのに、本屋では財布のヒモが固くなるのだ。つまりまだ買ってない。

話の角度を変えよう。単行本は高いのは探せばいくらでもあるし、大学の出版会とか、みすずとか、国書刊行会とか、いつも「ああ、あいつはなあ…」と同僚や同級生から後ろ指さされるような版元さんが出てくるばかりあるから、そうね、文庫の話をしよう。

文庫で高いのといったら、『東京大学「地下文化論」講義』は白夜ライブラリーという、ことし出てきた、白夜書房の文庫から出ているが、1365円もする。単行本は2000円だったからお得感がないではないが、だったら単行本のほうがおしゃれで良いな、という気がする。そう思いながらどちらの版も持っていない自分はたびたび立ち読みをするが、いつも「この本で言われていることは、ぜんぶ知っているわ」という、阿呆としかいえない、謎の敵対意識、ライバル意識が燃えてきて、決まって棚に本を戻してしまう。

そう、最近は文庫もマニアックな、刷りのすくないものが出ていて、そういうものは高い。文芸文庫を例に出さなくても、ランダムハウス講談社文庫から出ている、村松友視の文庫は、200ページに満たないくらいなのに、二冊とも700円を越すし、おなじ村松氏が在籍していた文芸誌『海』からひろってきた文章をあつめた、中公文庫の『文芸誌「海」精選短篇集』はなんと、1500円もする(ほかに同シリーズは2冊あるがそっちも高い)。これに限らず、最近の中公文庫は無闇に値段が高い。全般的に、専門的でスレッカラシよろこばしの文庫などは売れないに決まっているから、最初から値段が高くつくのだ。好事家のためだけに出しているのだから、好事家が高く買わねばならないのだ。

ではここで好事家本をつくる側の発言に耳を傾けよう。いまから2年前、2006年の春のこと、かちゃくちゃと盟友・エロ編(id:erohen)は、インタビューユニット「太郎と三郎」をひっそり結成し、その取材第一弾として、国書刊行会の編集者・樽本周馬にインタビューした(「未来の文学」シリーズほかを担当。前にすこし仕事にふれた http://d.hatena.ne.jp/breaststroking/20080309#p2)。その記録は構成まで終わったところで、わけあってお蔵入りとなり、発表の場を持てず死産したが、そこで樽本氏は、実感を込めて次のように言っていた。インタビューイー(とエロ編)に無断で一部転載す(初出がないから転載とは呼ばんのだろうが)。

エロ編(以下「エ」) ネット上でも樽本さんの名前を検索すると、そのときのレポートが出ますね。
樽本(以下「樽」) 京フェス(#1)のやつですね。大森さん(#2)との対談だったんです。
エ そのレポートを書いた方も、樽本さんの営業時代の話が面白かったって書いてあるんですけど、そこの写真を見ると、やっぱり(今日の)この服だった(笑)。
樽 そうそう。だって服が買えない。買わないんじゃなくて、買えないんです。あんまり服屋に行かないし。なんとかしたい。これを良しと思ってるんじゃなくて、どうしようもなくてこうなってるんです。
かちゃくちゃ 仮の姿。
樽 いや、仮じゃなくて、ダメだなあと思いながら、何とかしたいなあとは思うんだけど。服って高いですしね、本に比べると。
エ でも…(『ケルベロス』#3を指して)、多分これ(を買うお金)で、シャツ買えますよ。
樽 そうですね。逆にこれが2500円とかしていて思うのが、やっぱりふつう本って、千いくらで、2500円で高いって言われますけど、でも千何円だと服なんか買えないだろうと。ちゃんとした良い服とか、五千いくらとか、一万円とかするんでしょ。本にもそういう考え方を導入せよと思いますね。

▼かちゃくちゃ註
#1 京都SFフェスティバル
#2 書評家の大森望氏。
#3 国書刊行会から樽本氏の編集でシリーズ「未来の文学」の第一弾として出版された、ジーン・ウルフ著 柳下毅一郎訳『ケルベロス第五の首』(2004年、2520円)

いま読み返すと2年後のおれの考えに対し、多少なり示唆的であり、予言的でさえある内容だ(くれぐれも上記インタビューの、論旨と直接関係しない、本の値段のくだり以外のインタビューイーの発言部分を注視しないでください。ましてクスクス笑ったりしないでください!)。

仮説として「本の単価がめりめり上がってきている、強気な値付けをするラインナップが増えてきている」という物言いが正しいとして、自分はその潮流にノンを言う人間では、ない。総合誌、専門誌を問わず、雑誌はつぎつぎ死んでいっているが、その轍を踏まないためには、フリーペーパー化(追記:単行本のフリペはあり得ないから、ここは何も言っていないに等しい)と、高額な好事家本化のどちらかに触れていくのがいちばん賢い手段だと思うからだ。

でも活字業界に向けて、物分りのよさそうなアティテュード身につけて、笑顔のお面被ってウィンク飛ばしてみせたところで、なんの解決にもなってないぞ。だって、なんで金が無い、金が無い、とこぼしているんだ。嘘だろ、金なら多少、あるだろ、と言われる。しかし実際ない。なぜか? 本を買うからだ、本を買うと金がなくなります、そう応えると決まって相手は、嘘だろ、本なんか大した値段しないだろ、いくら買っても大したことないだろ、と言ってくるので、話は大概、それ以上発展的に進まない……(以下無限につづく)