ヘンな文章が好きだ5 N森さんの新作「ただ坐ることに打ち込む」第三回

●ただ坐ることに打ち込む3

 人は孤独でない方がいい。お腹がペコペコでなかったらなおのこといい。というのも実のところ私は空腹のため卒倒寸前であるのだった。背中のリュックサックの中にしのばせている、先ほど格安で購入した無印のチーズドッグを食べようにも、それを取り出す力がない。ライブはもうすぐはじまるであろうから、少しくらい体力をつけた方がよいだろう。
 そんな折、私にふらりとよりかかる女がいるので危うくドミノ倒しになるところであったが、よく見ると永年の風来坊女子、よう子であった。今年で三十七、八歳、結婚もせず、日雇いアルバイトで日銭を稼ぎ、家に寄り付かず、漫画喫茶、友人宅、朝までやっているバーに寝泊りし、その 日暮らしをしている女だ。数ヶ月前ジョイ・ディヴィジョンの映画「CONTROL」を鑑賞したとき、偶然劇場で出くわしたのだけれども、その時より幾分やつれているように見受けられた。
よう子は、開口一番、おなかがすいたと私に言った。
「なんかちょうだい」
「チーズドッグならあるよ」
「ひとかけらちょうだい」
「いいよ、まるごと一本あげるよ」
「ううん、ひとかけらだけでいいの」
「リュックの中にあるの、勝手に取って……」
 放浪の日々が長すぎて、わずかの食べ物でかなりの体力を貯蔵できるよう体質が変化を遂げた女の身体は、よく見るとやせ細ったというより、余分な肉がなくなって、引き締まり、洗練され美しくも感じられ、放浪グセを極めつつあるといったていであるので、私は人間の生命力について感じ入った。しばらく散髪しなくても大丈夫なようにかどうなのか、髪の毛は短く刈り上げられている。毛の先まで栄養が行き届いているのか、彼女の髪はつやつやしている。身なりはボロ服でアカまみれであるが、本人自体は美しいかもしれない。
 よう子はわたしのリュックの中をまさぐるが早いか、野生の勘でチーズドッグをすぐさま袋ごとを掴み上げた。袋からドッグをつまみ出す拍子に、いくらかの破片がポロポロと床にこぼれ落ちた。
「あれっ? チーズドッグってこんな小っちゃいやつなの? もっと大きいのかと思ったんだけど」
 私は首を横に振った。ライブ会場はすでに薄暗かったから、ホロホロこぼれたお菓子のカスは、もう目にすることはできなかった。
コッペパンにチーズが挟んであるやつだとでも思ったんでしょう? ソーセージドッグ、みたいな。そうじゃなくてワッフルみたいなやつなんだよ。中に甘いチーズが入ってるの。どう? 美味しい?」
「想像していたのと違うから……わからない」
 どこかで誰かがしているのを見たことがあるような、真一文字の唇。美味しくも不味くもないようだ。私はよう子の手に残っているチーズドッグを分けてくれと、彼女に頼んだ。と、急にライトが照らされ、ステージは明るくなる。若者たちが待ってましたとばかりに、舞台に駆け寄る。向井秀徳は白ぶちのサングラスをかけている。
「祭りスタジオからお送りする……ナゴヤ・シティーの……祭りセッションの……」
 いよいよライブがはじまろうとしていた。ステージの人が白ぶちのそれを外した時、そのまた下に、いつもかけているメガネをちゃっかり装着していたので、それを見た若者たちが、二重メガネにわっと笑った。きちんと度の入ったメガネであるから、向井秀徳にはその様子がよく見えた。
 体力のない上、日光アレルギーで近眼の私は、日ごろ夏の強い日差しとまぶしさに悩まされ、とはいえ度入りのサングラスを作るお金もなく、先日ユニクロで特売セールの折に求めた二百九十円のサングラスを、通常のメガネの上からかけるようにしていたのだが、世の中には同じようなことを考えている人がいるんもんだなあ。メガネを二重をかけるというのは、人によったらに奇行にうつるんじゃないかと憂慮していたが、胸のすく思いがしたものだ。
度入りのメガネの上にサングラスのなんと見やすいこと(以下、つづく)。