ヘンな文章が好きだ6 N森さんの新作「ただ坐ることに打ち込む」第四回


●ただ坐ることに打ち込む4

 数日後、石澤さんと電話で話す機会があって、あなたを見かけたと思ったら向井秀徳だったという話をした。すると相手は複雑そうに、
向井秀徳は大好きだけど、似てるというのはなんだかうれしくないよ。今日は『崖の上のポニョ』を鑑賞してきました。ところであんたはポニョに似てるね。人間のときのポニョじゃないよ。魚のときのポニョだよ。むしろポニョ以下だ」
「そういえば私、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』読み終えたの。すごくおもしろかったのよ」
「ああ、読んだの、俺も、六十歳くらいになったら読もうと思ってるの。短編はいくつか読んだことあるけど、『百年の孤独』は長いし、腰をすえて読まなきゃいけないというか、時間がかかるだろう。それに、有名すぎて意外と読みきった人、少ないんじゃないかな」
「今さらガルシア=マルケス、『百年の孤独』と大声でいうのは恥ずかしいという感じ?」
「どうだろうね、みんな読んだフリをしているけどね、『我輩は猫である』みたいなふうにね。まあ、読んでみたら間違いなくおもしろいんだろうね、でも、普通の人ならおもしろいね、すごいね、大作だねですむんだろうけど、あんたの場合は自分の人生に近いものを感じるんじゃないの?」
「そうなの! とりわけアマランタには肩入れしちゃうなあ。アマランタはね、長年好きだった人に結婚申し込まれたら断って、片腕お湯に突っ込んで自ら大やけどする人なんだけどね。とにかくさ、一族は百年かけてね、繰り返すのよ。でもそういうことってあると思わない? 石澤さんも、いやだいやだと思っていながら、 自分と父親が似ていて、血は争えないというか、ゾッとすることってない?」
「まあ、たしかに俺と親父はセカセカしているところは似ているね」
「私もね、似てるなあと思うところがあるの。たとえば、アルミ缶集めているおじいちゃんが自転車で通ったらさ、アルミ缶渡すために追いかけてみるし、夢遊病みたいなおばあさんを道でふらついてたら、車で拾って家まで送ってあげたり、私って、そういうところあるんだけれど、最近、二十年ぶりに同居することになった私の兄も、母の話ではどうやら同じような癖があるらしいの。ほとんど一緒に暮らしたこともないのに、性格が似ているんですってよ! 死んだおじいちゃんは人生を呪いながら死ぬまでものを書いていたし、 私も何かしらそんな婆さんになる予覚があるし、父の方向音痴とか、頭が悪いというか、キャパの狭さとか、あきれる一方で自分にも思い当たるところがあって、ゾッとするのよ! 最近は蓄膿症もなんだかひどくて、しゃべりづらいし、キノコ……」
「キノコ? あんた何言ってんのかよくわかんないけど、まあ、南米の文学ってのは、あなた勉強になるところがあるんじゃないの? 独特なものがあるからね。ゴンブローヴィッチとかも考えるところあったでしょ?」
「あったあった! あのひとチリに住んだ人だっけ? チリっぽいところ。アルゼンチン? とにかく細長いところだよ……」
「は? 何言ってんのかわかんねえよ。あ、ちょっと、電車来たからさ、電話切るよ」
「とにかくゾッとするのよ、身内のことを考えると……」

 石澤の前に電車が止まったに違いない。私も、一瞬、電車に乗ってどこかへ行ってしまいたいような気がした。私がどこかへ行こうとするのを、許さない人たちが、私の目の前にあふれ返っている。迷子の赤ちゃんを家に連れ帰ってしまい狼狽した様子で私に救いを求める兄や、これから迷子になるであろう不安も一切なしに、近所のパチンコ屋へ出かけようと、部屋中の小銭を捜し求める父や、今や幽霊となって恨めしそうに、異様に腰を曲げ筆ペンを口にくわえ私の背後につっ立っている祖父や、数時間前、私にチーズドッグをせびり、そのカロリーのおかげでライブでひとしお大暴れしていた私の姉さんが、何年ぶりに帰って来たのだった。母の入れ歯の調子は今日も悪そうだ。入れ歯は食卓のテーブルの上に置かれ、それを見た姉さんが食べ物であると勘違いし、入れ歯の横にいくらかの小銭が散らばっていたけれど、父はそれに気づかなかった。部屋にひしめく家族を一望、私は血を思ってゾッとする(以下つづく)。