まがじなりあ・あちらこちら14 雑誌は私にすべてのことを教えてくれた


今月の『ミュージック・マガジン』(10月号)のことをまだ書いてなかった。「特集Perfume現象」は9つの記事からなる充実した内容で、ファンならずとも楽しめるが、この特集のなかで5つの記事を書き、司令塔兼点取り屋として大いに気を吐いているのが、ライターの宗像明将(以下ムネカタさん)だ。

音楽批評であり、データ、資料的記事であり、藝文でもあるようなムネカタさんの特集中のテキストは、いずれも一種異様な緻密さと、その冷静さの下に隠しきれない熱情とを併せ持っている。誌面からせり出してくる、<念のカタマリ念のカタマリ念のカタマリ>ZAZEN BOYS「6本の狂ったハガネの振動」『ZAZEN BOYSII』)とでも呼ぶべきパトスを感じるには、それぞれの記事の、むすびの一段落を読んでいくのが最も早いだろう。

自由に先鋭化することができるcapsuleという母船がある限り、中田ヤスタカは大衆への挑発も繰り返していくことだろう。その最先端に、今パフュームがいる。
中田ヤスタカのひとつの実験の場としてのパフューム 大衆への挑発を繰り返すサウンド・プロデューサーの全貌」

 この記事を書き終えたら、明日は夏に死んだパフュームのヲタ仲間の墓参りへ行く。パフュームをめぐる激しい渦の中に、自分が人生ごと入り込んでしまったことに気付いたのは、つい最近のことだ。
「”新古参”ファンの嘆き 急激で巨大なブレイクに戸惑う“現場”」

パフュームの作品を追うならば、常に気を引き締めておき、そして過去の作品にまで手を出そうとするなら、常に財布の紐はゆるくしておこう。鉄則だ。
「これで完璧!CD/DVDコンプリート・ガイド」から、「その他の参加作品、アナログ盤、ボックスなど」より


愛する何かへ体ごと投じて、頭の先まで没入して、それからもう帰ってこないということの、修羅。


ちなみにこの号でもう一つ目を引いたのは、向井秀徳のインタビュー、ではなくて、奇才リー・ペリーとエイドリアン・シャーウッドのインタビュー「パンクとレゲエが出会って何が生れたのか?」だ。聞き手は石田昌隆。

前半はわりと聞かれたたことにしっかりした応答していたリー・ペリーだが、後半からその返答は、異常世界に入っていく。記事の中盤で石田氏は、<(リー・ペリーは調子が出てきて、もはや質問と関係なく答えている)。>と諦めた様子で注意書きを書き込んでいるが、密林の警告看板を無視するように、その先を読み進んでいくと……

−97年にインタヴューしたときは喫茶店だったので、近くにビジネスマンがたくさんいました。そのとき頭に水の入ったコップを乗せて奇声を発していたのですが、それはわざと人を寄せつけないようにしていたってことですか。
リー 周りに蝶々の形をした精霊がやって来て、私に語りかけてくるんだ。こいつらは自分の精神面を崩そうとしているのだと。すると私はそういう人を近づけないようにクレイジーなことをするんだ。


−『ザ・マイティーアップセッター』の盤面のアートワークと同じ筆跡(かちゃくちゃ注:リーが取材中に紙に書いたアルファベットが)ですね。
L 自分が雨を降らせたり、止ませたりする力を持っています。


−95年に出たビースティ・ボーイズの雑誌『グランド・ロイヤル』の2号でリーさんが特集されました。……もし『グランド・ロイヤル』で特集されなかったら“Arkology”が出なかったなんて驚きました。
L 自分は先生でビースティ・ボーイズは生徒みたいだった。だから私は、自分の黒い影について教えた(と言って、リーはトイレに立った。そして2分後に「フレッシュ」と言いながら戻ってきた)。


石田さんもきっと確信犯。取材のことを思い出して、ニヤニヤしながら構成を仕上げたはずだ。



週刊文春』10月2日号を読みながらおれは「おっ」と声を出した。視線の先にあったのは、巻頭の「原色美女図鑑」で異様な色気を放っている稲森いずみ36歳のグラビアではなく、小林信彦の連載の、冒頭の文章。

 かなり前の土曜の夜に、評論家でもジャーナリストでもない人(ミュージシャンだったと記憶する)がラジオで、
 −今の自民党の総裁選なんて、巨人軍の紅白試合みたいなもんじゃないか!
 と叫んでいた。
 ……うまいことを言うなあ、とつくづく感心した。若い人のこういう直感は莫迦にできない。
「本音を申せば 観客を拒む映画館」


歌多丸さん? うれしいだろうなあ。

http://www.tbsradio.jp/utamaru/index.html



細かいことばかりに意識が向くと、楽しいこともあるが、ただ大抵は、社会のなかで身をちぢこまらせて生き延びるしかないというような、ある観念したような生きづらさを生む。そう、わたしは生きづらい……。

週刊ヤングジャンプ』10月23日号は、センターグラビアが谷桃子で、こんど出る写真集の宣伝グラビアなのだが、1ページ目、ソファの上で谷間を強調したベストを着た谷が、正座して三つ指ついて軽く頭を下げるようなポーズでこっちを見上げている。その写真には<谷桃子の新作を上梓します>というテキストが添えられている。この一文、文法的にはもちろんまちがってはいないが、ヤンジャン編集部がたとい責任編集つまり送り手であっても、主役となる被写体は谷なのだから、この場合はやはり、『谷桃子「が」新作を上梓します』として、主体をもう少しぼかすというか、谷寄りにしたりするのが正しいのではないか。『ヤンジャン』のテキストは、『ヤンマガ』の編集部介入型変態グラビアテキストではないのだから……。こんなことが気になって、生きづらい…。

隔週連載の『GANTZ』は絵のスピード感、展開のテンポ感ともに文句ないが、会話で多用される、促音の小さい「ツ」が気になる。この回でも、<NHKでやッてたんだぜ><中国のオリンピックの開会式と一緒だッて><昨日2ちゃんねるすンごいことになッてた><張ッてある画像がすッげーの>などがすぐ眼につくが、実はこれだけで、この回の最初の2コマ分に過ぎない。いかに促音の「ツ」が『ガンツ』の誌面を覆ってしまっているか、わかる。

たしかに促音の「つ」をわざとカタカナで「ツ」と表記することで、得られる効果も多少はある。自分も文章を書くとき、よくやる。しかし、ただ自動的に促音の「つ」が現れたらカタカナで表すというやり方は、面白いかというと、漫画のテンポを殺していて百害あって一利も無い。読者が心地いいテンポで読み始めたところを、すかさずこの小さい「ツ」がいちいち障害になって足払いをしかけてくる。いちいちつっかえる。

表記による演出効果を考慮しても、すくなくとも、上の2コマ分で、カタカナのツが必要と思われる箇所は、ひとつもない。『ガンツ』は、最高級な娯楽作品であるから、読むときも、作品に負けないような疾走感をもって、パーッと読んで、あとはサッと捨てて、パッと忘れてしまいたい作品なのだ。読みづらいのは勘弁してほしい。

おまけに、さっきの<張ッてある>というのも酷い。正しくは言うまでもなく、「貼ってある」でしょう。マンガは校閲がないのでしょうか?

ああ、生きづらい……