ヘンな文章が好きだ7 N森さんの新作「ただ坐ることに打ち込む」最終回


●ただ坐ることに打ち込む5(最終回)


 バラック小屋に西日が差した。西日はまぶしいのだった。
 部屋の畳はすっかり色あせて替え時をとうに逸していた。家族の誰もが畳のことなぞ関心もよせていないのだった。   
 借家の大家はいい人だ。貧乏人の一家を破格の家賃で長いこと住まわせてくれている。しかし、大家の息子夫婦、とりわけ嫁さんがいけない。この長屋を取り壊して駐車場にしたがった。目の釣り上がった、意地悪いその女が、「今度の耐震検査でひっかかたら、このオンボロ長屋は取り壊しますからね!」と、語気を強くし義理の父に向かって声を上げた。
 小学校高学年といったところであろう大家の孫娘は、母親の背中にくっついて、ざまあという感じでそのやり取りをうかがっている。自分の母親が祖父に対し強く出るのを、幼い頃から毎日見せつけられていた少女は、多感な年頃を迎え、いよいよ彼女自身、祖父について疎ましく思いはじめたのだった。娘への暗示の成功に母親は一瞬ほくそ笑んだが、娘の口から、その老人が一刻も早く死ねばいいという言葉を聞いたとき、ゾッとした。母親はそこまで考えたことななど、一度とてもなかった。少女にそうした思いを起こさせたのは、母親の性格によるものかもしれないし、父方の家系に、慈悲を持たない人間がいたのかもしれない。
 大家の孫娘は、これからピアノのレッスンに向かうつもりであった。少女は、ピアノ教室の、他の子どもたちにひけを取らないような、品の良い白いブラウスとピンクのワンピースを着せられ、胸元に飾られているカメリアのブローチは、一見高価そうに見えなくもないが、この一家とてそんなに裕福なわけでもないだろう。金持ちってのは、もっといい借家を持っているんだろう。借家は長屋なんかじゃなくて、鉄筋のマンションか何かだろう。鍵だってオートロックか何かで、南京錠ではないだろう。
 一人娘を教室に連れてゆくため、嫁は車を出さなければならなかった。居間を出る折、お義父さん、この話はもう決まったことなのですからね、と、嫁は舅に向かって念を押した。嫁の後につづいた娘は、出て行きざま、唾をかけるような流し目を祖父にくれた。

 耐震検査は明日だ。それは我が一家にとって死刑宣告となるだろう。
 バラック小屋に西日が差した。西日はまぶしいのだった。私はサングラスをかけた。
 度入りのメガネの上にサングラスのなんと見やすいこと。


※生ブシ 半生状態の削りガツオ