まがじなりあ・あちらこちら番外編 感傷的な散歩、あるいは雑誌、われ逝くもののごとく


やる仕事が劇的に変って、ネットもやってないし新聞もあんまり読まない暮らしになっちゃってる。よくないんだけど不便さはあまり、ない。

だもんでジュンク堂で立ち読みしてたら、雑誌のフロアで『本の雑誌』(本の雑誌社)の一大フェアをやっていて、なにがあったのか張り紙を見たら、同誌が休刊を考えたが一度撤回して、できるところまでなんとかやっていくよという宣言を出したのを知って、そしておなじく立ち読みで『インビテーション』(ぴあ)が今号であっさりと休刊してしまうことを知って、おれはうろたえた。さらに『エスクァイア日本版』(エスクァイアマガジンジャパン)も終わっちゃうととんからさんに聞いて、さらにギャンとなった。きょねんの『タイトル』(文春)、『月刊プレイボーイ』(集英社)などにつづいて、あまり読者として縁のある雑誌じゃなかったけど(ウソだ、『本の雑誌』は途中ぬけはあったが、15年くらい、ずーっと読んできた)、日本の都市的な文化を底支えしてくれていたこうした頼りがいあるカルチャーマガジンが、つぎつぎ事切れて戦線から離脱していく様には恐怖感をおぼえる。

リアルな読者を一定数持った雑誌も、雰囲気やブランド感を先行させて広告をあつめ、リビングデッドのように生きのびてきた雑誌(『インビテーション』や『タイトル』は、どちらもその終盤、カルチャーキッズや読書人をガックリさせるリニューアルを試み、よりパリッとした広告をあつめて延命していたね)も、みな等しく廃刊の危機に瀕している。当たり前のように本屋やコンビニならんでいたこうした雑誌がだんだんと姿を消していくのは、筒井康隆の『残像に口紅を』(中央公論社→中公文庫)のオビ文句ではないけれど、さみしい。また何年かして景気がもどってきて、広告が前ほどでないにせよ、すこし雑誌に戻ってきたとして、これらの雑誌が復活することはあるのか? 誌名がいっしょでもべつでも、確実にそれは以前とは、ちがう雑誌なのだ。

そのいっぽうで、ネットやリトルマガジンのおもしろい動きはたえることがなく、むしろ次第に大きなうねりを形成し始めている。ばるぼら大谷能生松本哉といった人たちは、こうした渦のなかから生まれた書き手といえるだろう。中小の出版社からも、意欲的な単行本が刊行されつづけている。不景気なんだけれども、不景気のせいだけじゃなくて、みんなが地図を書き換えたがっていた。それが不景気がきっかけになって、みんなにリアルに判っちゃった、地図の書き換えが始まっちゃった、ということだろうか。

<そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。>。安吾のことばのなかの「日本」を「出版」に置きかえてみると、事態は悲観するばかりでもないような気もする。

http://kindai.bungaku1.com/showa02/daraku.html

なんにしても、動き出した流れを止めるすべはない。個人の生活はみずからの意志と情報の収集でもって防衛して、充実させていかないといけない。


mixi日記っぽいエントリになってしまったな。
#同日一部加筆。