イベントについていろいろ考えを持っている。イベントとはどういうものか。人と人が集まって音楽をかけたり、酒を飲んだり、話をしたり、同じ方向を見たり、ばらばらな方へ視線をさまよわせたりする。ある人は浮かれ騒いでいるし、ある人は棒のように立って静かにしているけれど高揚する気持ちを、内側に持っていたりする。反対のほうを見れば、鬱々とした気分で隅に立っている人もいるし、椅子で寝てしまった人もいる。明日の予定を考えて、帰ろうかまだこれから面白くなるかもしれないから残っていようかと思案している人もいるし、友達や初めて会う人と話をしているのに、心の中はまったくスイングしておらず、後悔と退屈さを隠している人もいる。

そういうものがイベントである。言ってみればそれだけだ。なのにイベントはいろいろな要素を持っている。主催の視点に限ってみれば、出演してほしい人を考えたり、その実現性の高い低いに悩んだり、メールを送ったり電話をかけたり、コンセプトを打ち出したり、フライヤーを刷ったり、事前に打ち合わせをしたり、演奏を練習をしたり、曲の順番やタイムテーブルを考えたり、会場の人にあいさつしたり、説明をしたり、意見を聞いたりする。始まってみたら、来てくれた人にあいさつをしたり、近況を交換してみたり、演奏を感想を伝えたりする。そうしていくうちに、単なる防音設備やステージやバーカウンターや機材や酒棚を持った建物にすぎない、そのイベント会場、言ってしまえば単なる屋根付き空間でおこなわれているイベントと自称するものは、最初は小さな、しかし次第に無視しがたいうねりを持って、そこにいる人たちを飲みこんでいく。優しく、しかし拒否しがたい力強さでどこかへ運び込んでいく。そのしなやかさと父性のような温かさ。イベントはそうなるとさながら一体の巨大な生き物のようだ。宮崎駿ワールドだ。

何かのイベントに行くと、いつもそこに住まっている見えない生き物の図体や身ぶりについて、おれは感覚を研ぎすまして迫ろうとする。たとえば印象的な事件があった。「東京の演奏」(http://ensou2.blogspot.com/)というユニークな歌ものや軽音楽系のイベント(括りが的外れでしたらお詫びします)があることは知っていたが、ブログの文字がちいさいのと(その時おれはブログの文字をいちいち大きくしたり小さくしたりするのは生き方としてやっていなかった)出演する音楽家たちがあまり自分が普段見に行く人たちと重ならないので、足を運ぶことはなかった。しかし去年秋に行われたそのイベントで、片想いというバンドの「踊る理由」という曲の演奏動画を、九龍ジョーhttp://passage.tea-nifty.com/firedoor/)さんのツイッターで教えていただいておれはぶったまげた。ここにはイベントに棲息する、目に見えない、インヴィジブルな獣、とても図体がでかく、動きが敏捷で、表情はやさしげ、そんな獣の全身でスイングする姿が、演奏者たちと重層的にレイヤーを重ねるように透かして、しかし視覚的にありありと見えるのだ。ノートパソコンが映した動画なのに。場所はおれのブタゴヤなのに。そんなことは今までほとんど経験がない、記憶がなかった。つぎにご紹介するのがその「踊る理由」という動画です。ご覧ください。



片想いは現状、つぎのライブの予定がない。おれはこれがイベントだと思った。有名無名は関係ない。富めるも貧しいも関係ない。友達がいるもいないも関係ない。ただ、いろいろなアイデアやセンス、準備や努力、複数の要素で、イベントはどんなイベントにでもなることができる。ある人はセンスオブワンダーという。ミラクルとか、奇想ということばで説明する人もいる。そういうものをいつか自分で実現してみたい。そのために<おなじ目線で見ているのに、見えてるものがぜんぜんちがう。その面白さ、それと悲しさ。あるいは、誰も見つけたことのない、とっておきのアイデア。>という標語を掲げることで、実現の手がかり、導きとした。最後に、このイベントという不確かなUMAについて一つだけ言えることがあって、イベントは同じような編成で、同じ会場で何度もやっても、同じイベントにはならないということです。だから2月18日にはぜひお越しください。夜中だから、ときどき眠いかもしれないが、飲みすぎなければそこまで眠い時間は持続しないと思うし、そういう気分で隅から隅までやっていきます。

以下はイベントの輪郭を詰めていくためのスクラップブックです。


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ほんとに清楚な顔をしているのに、/
なんで首から下のビキニがあんなちっちゃいんでしょうか。


ほんとに男の人の考えてることなんか、ぜんぜんわかってないような顔して /
なんであんなに 男を、男をだますような動きをするんでしょうか。


ryuto taonと抱擁家族「sakurawakaba」2月6日の練習テイクから、冒頭部分のMC。
※このテイクはグラビアアイドルの吉木りさちゃんに捧げられている。トラックはバンドのマイスペースで11日に公開された(http://www.myspace.com/hoyokazoku)。


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ウィリアム・サローヤンの『人間喜劇』はアメリカのイサカという架空の町を舞台に、父と兄のいない戦時中の貧しい家族(特にホーマーとユリシーズという名前を持った兄弟を中心に)を描いた小説だが、暗いトーンということではなく、ある生活のたくましさと、ふしぎな幸福がこの小説には充溢している。訳者の小島信夫は作品との出会いを、訳書の原著者紹介でつぎのように述懐している。

 私はかねがね小説を書きたいと思っていた。そういう意味で、自分に刺激を与え、自分の創作の推進力になるもの、何かスタイルの勉強になるものをさがしていたところであったが、これをよんだ時に、目のさめるような気がした。ほとんど日常会話に出てくる語彙しか使っていない。短かい文章。笑い。一語一語がつながって行くうちに生き物のように溌剌と浮び出てくる。一語でいうと私は鬼の首でもとったように思い、あけてもくれてもサロイヤン、サロイヤンといい、いたるところで宣伝し、日比谷のCIE図書館でテキストにして、選集を借り出してくると、それをプリントしては、学校で読んだりした。私の目的はもともと自分の創作に役立てるつもりであったが、遂にサロイヤンは、作品の中にほとんど生かすことが出来なかった。

小島信夫「ウィリアム・サロイヤンについて」ウィリアム・サロイヤン著 小島信夫訳『人間喜劇』晶文社、文学のおくりものシリーズ1977年

……電報配達は部屋を出て、用心深く弟をハンドルバーに乗せた。スパングラーはそれをじっと見ていた。兄は自転車にとび乗り、それから通りをペダルをふんで行った。二人が町中から出ると、ユリシーズは身体をよじって兄をふりむいた。この日はじめて、坊やの顔にあのマコーレイ家の者特有のほほえみがうかんだ。
「ホーマー」と坊やはいった。
「なんだい」とホーマーはいった。
「ぼく、歌えるよ」とユリシーズはいった。
「そりゃいいな」とホーマーはいった。
 ユリシーズは歌いだした。「歌でもうたおうじゃないか」と坊やは歌った。歌うのを止め、それからまた歌いだした。「歌でもうたおうじゃないか」坊やは歌いだしたが、また歌うのをやめ、そしてまたすぐ歌いだした。「歌でもうたおうじゃないか」
「そりゃ歌じゃないよ、ユリシーズ」とホーマーはいった。「それは歌の中のほんの一部さ。さあ、ぼくが歌うのをよく聞いてなよ、それから一しょに歌おう」兄は歌いだし、弟はそれをじっと聞いていた。
 ”もう泣くのはよそうよ、お前
  ああ、今日はもう泣かないでおくれ
  歌でもうたおうよ、なつかしい
  ケンタッキーの故郷のために、
  遠いかなたの、なつかしい
  ケンタッキーの故郷のために”
「もう一ぺん歌ってよ、ホーマー」とユリシーズはいった。
「O・K」とホーマーはいった。そしてこの歌をまたうたいだした。だが今度は、弟も兄と一しょに歌った。そしてこうして二人で歌っていると、ユリシーズはあの貨物列車を、そして無蓋車からんもりだして、笑いかけ、手をふった黒人をまた目の前に見るようだった。これは、ユリシーズ・マコーレイにとって、この世に生れてから四年間のうちで最もすばらしいことだった。坊やはその男に手をふり、彼がまた坊やに(坊やにに傍点)手をふって返した―たった一度でなく、何度も何度も。坊やはこのことを生きているかぎりおぼえているだろう。


前掲書より。


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俳優の山崎努は『週刊文春』での連載「私の読書日記」に去年くらいから参加しているが、1月20日号の「愛憎、いたずら、麺」と出した回で、冒頭からチェーホフについて書いている。

 ×月×日
 チェーホフに『煙草の害について』という独白劇一幕物があって、昔、俳優学校の授業でやらされた、ような気がする。
 もう五十年余り前のことなので記憶が薄れているのは仕方がないが、しかし実際に自分が演じたとすればその時の実感のちょっとした断片くらいは消えずに残っているはずだ。それが全くないのだから、もしかしたら僕は他の生徒がやるのを見ていただけだったのかもしれない。
 まさに往時茫々だが、ひとつだけ憶えているせりふがある。この劇は、遣り手の女流教育家の夫である初老の男が、妻の命令で「煙草の害について」の講話をするという設定で(戯曲は一八八六年発表。一二〇年以上前からタバコの害が騒がれていたわけだ)、こいつは初めからやる気がないので、すぐにテーマから脱線してだらだらと妻の悪口や愚痴を並べることになってしまう。その中に、「とにかく私はここから逃げ出したい、どんどん走っていって、遠くの野原にぽつんと立つ一本の木になりたい」と悲痛に叫ぶ件(くだり)があり、なぜか僕はその部分だけを鮮明に覚えているのだ。今でもチェーホフを読むと「野原に立つ一本の木」が風景として先ず頭に浮かぶ。


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でも大体、しあわせだったかい?


吾妻光良&The Swinging Boppers「小学校のあの子」、最後の歌詞。小学校のころに好きだった女の子がどのような人生をその後送ったのか、その子に呼び掛ける形で歌われる楽曲。


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おなじ目線で見ているのに、見えてるものがぜんぜんちがう。その面白さ、それと悲しさ。あるいは、誰も見つけたことのない、とっておきのアイデア


ryuto taon と抱擁家族企画『分別ざかりの無分別 VOL.2』


日程 2月18日(金)
時間 24時〜29時(all night long)
LIVE 電子音楽インジャパン(http://www.innjapan.info/)、忘れらんねえよ(アンプラグド)(http: //www.myspace.com/wasureranneyo)、ムリン(http://www.myspace.com/mmmurin)、 ryuto taonと抱擁家族http://www.myspace.com/hoyokazoku
DJ 柳下毅一郎特殊翻訳家)、とんびのからあげ(未来の文学)、DJ MAGMA(スーフリナイト)、沈まぬ太陽スーフリナイト)、ryuto taon、かちゃくちゃ(大衆決断)
会場 高円寺クラブミッションズ(http://www.live-missions.com/) Tel:03-5888-5605
料金 1500円+1ドリンク
INFO http://d.hatena.ne.jp/breaststroking/