ナボコフ『ローラのオリジナル』をめぐってメモ 1度書き加え版


ナボコフ生前最後の−不思議な言い方だが、あえてこんな風に書いてみたくなる−小説。中編程度の長さで構想されていたが、その死によって中絶された。故人の遺志により公刊されてこなかったが、偉大な父とその仕事を病的なほどに敬愛し、外部からの批判や著者に不利益な仮説に対して忠実な番犬のように戦う反面、ナボコフの名前と遺産をつかってビジネスをするという、アイデンティティの綱渡り名人、あるいは、二世ってこういうもんなのかもね、という典型人間である子息ドミトリ・ナボコフによって2009年11月、ペンギンとクノッフから同時に刊行された。二社で同時に刊行というのは珍しいように思えるが、ディミトリの商魂によるものなのか、経緯はよく判らない。自分は買わなかったが、若島氏の解説によると、本から切り離せてバラバラの単独のカードに分けられる、ユニークな、現物に忠実なつくりをしている。

そう、未完の小説は138枚のカードからなる。

ふつういまわの際まで書きすすめられた遺作というのは、明晰な遺志で書かれるものというより、此岸と彼岸を、生きながら行き来するような、不確かな筆致で描かれた茫洋とした、脂っ気のない書物、というものではないか。印象でこういうことを書くとよくない。わが国にも『明暗』もあるし『豊饒の海』もある。だけどまあ、そんな気がします。晩年の小説というのは枯れてたりふらついていたりする。その境地を「幽玄」と呼んで、尊ぶカルチャーもあるし、もちろんその精神状態でこそ書かれる名作というのもある。ループが少しずつずれながら前進していくような小島信夫の『残光』は、キャリアのなかでも屈指の名中編だし、(実はとっさにいくつも例が出てこなかった)

しかしナボコフは老いてなお、というか、死の際にあってなお旺盛だった。明晰な意識のもとで、たくらみが張り巡らせてある。若島氏の異常な完成度をもつ訳者解説「ナボコフの消失奇術」にくわしいように、このカードによる中編はまず会話からとつぜん始められる。読者はいきなり訳もわからない世界に投げ出される。しかも、その会話は間接話法によって語られている。通常の小説の会話文であれば、直接話法で書けばよい。二人の関係性と、かわされている情報が伝わればよいからだ。しかしナボコフの奇術はもうここから始まっている。間接話法がつかうことで、舞台から隠れようとする不在の語り手の存在。そして間接話法によって、現実の人物たちの発言を、あとから改ざんすることができるということ。枯れていない。たくらみに満ちている。冒頭ですべるように一筆書きのように優美に書かれたローラと男との性交渉シーンは、ナボコフの作品でも群を抜いてエロチックだが、筆運びはうっとりするくらい美しく、ナボコフ的である。虫眼鏡で拡大したような性への肉薄と筆の運びと小説的たくらみがのっけから惜しげもなく繰り出される。これが死を目前にした人間の仕事だろうか?

・間接話法とはどのようなものか、何のために使われているかを端的に説明するにはどうすればよいか?、知恵を仰いだところ、若島氏は自分に、NHK朝の連続ドラマ『おしん』の、ナレーターがドラマの映像にかぶせて話す、ボイスオーバーをイメージするとよい、といつも言っている、と教えてくださった。おしんの心のなかの声を、時を越えて、ほんとうの声を多少、脚色して、ボイスオーバーは現在の視聴者に伝える。この間の伝達の効率化と改変操作の可能性、そういうものをおさえておけばよいのだろう。

・むしろ、『ローラのオリジナル』はカードのままで終えられて、かえってこの小説に秘密めかしたところ、読み解くべきポイントが増えたのではないか?

最後のカードの不気味さ(消える、という意味を持った単語を七つほど書き並べてあるだけ。そのうちのひとつがマルで囲まれている)は、少なくとも作品が完成していたら読者に伝えられることはなかった。そういう意味では、このカードを138枚目とした、ドミトリは、ファンや研究家から批判される問題児(もう80ちかいそうだが、永遠のナントカ、というニュアンスもこめて)というだけのものでもなかったのだという気がする。

・明晰ゆえに恐怖がある。このカードの順序はドミトリが決定したものだから、生前、どのような順序で書かれたものか、われわれには判らない。カードが上半分に掲載されているが、やたら丁寧に読み取りやすい筆跡で書かれた前半のカードもあれば、思いつきを殴り書きしたような、小説のどの部分にも、そのままでは取り入れられないカードもある。ワイルドの人物像と重なって、濃厚に不吉な、死の匂いをはらんだカードもあり、それらは霊界につながっているようだ。

異様なのはローラの夫・ワイルドが死ぬまでに書いた、妄想のなかで自己を消滅させて安らぎを得るという奇妙な催眠遊びのことだ。なぜこのような発想が生まれたのか? まるでベーコンの絶叫する顔の半分ない男の絵画のように、これらのカードはおぞましくも、目が離せない。
自己を消滅させるこの不思議な遊び(?)の手順はこうだ。(手順)。ワイルドは自分の巨大な体躯に似合わない、ちいさな足を持っていた。生涯、合わない靴のなかで悲鳴をあげる足の痛みがいやで、それでトランス状態のなかで自分の足を文字通り消滅させるという試みを始めたのだ。自己嫌悪と自己破壊。しかしこのトランス状態を自分で呼び込み、イメージのなかで自分の体を消すという、奇妙な儀式はなんだろう? ローラのオリジナル執筆時のナボコフも、足の痛みで、爪を剥いでしまいと漏らしていたそうだ。この体験が元になっているのは判るが、しかし不気味で、唐突なワイルドの習慣。カードの森のなかに、ゴロンと放り込まれているから、余計にそう感じるのかもしれない。

・自分はオカルト小説ずきではないのだが、ナボコフと霊界というのは、興味の尽きないテーマである。生命力の塊だったナボコフが、死ぬ前に作品を通じて接近した「死後の世界」。確かにナボコフの小説の主要人物たちは、プニンや一部の例外を除けば、大半が不幸な死に方をしている。その意味では、ナボコフの小説はつねに死に近かった。だが、『ローラのオリジナル』で描かれているワイルドの自己消失遊び、作中小説『ローラ』で書かれているという、ローラのおぞましい死についての示唆など、この短い小説は過去にないほど、死の臭いが立ち込めている(ここの例をもっと探す)。

さらに、死者そのものを語り手にした、間接話法をつかった前例のないミステリ(要素のある文学)『透明な対象』も忘れてはいけない。作者の死から数えて、三作目にあたる長編だ。この小説の不気味さも、十分、検討されなくてはいけない。ナボコフが小説に閉じ込めることでためつすがめつ検討した「死」とは、なんであったか? そのきっかけとは? さらに興味深いのは、若島氏の

・若島氏のうなるほどの名文で指摘されているもののなかで、最も重要で、最も冴えを感じるものは、『ローラのオリジナル』と『青白い炎』の二作における、構造の共通性だ。読んでみればわかるが、二つの小説(前者は完成していないが)は、一見してまったく似ていない。『青白い炎』は狂っている男が、自分が大好きな大学教員が書いた詩を盗んで、それに勝手な解釈にもとづく膨大な注釈をつけて出版するか失敗したかする話だった。狂人キンボートは注釈をつらねることで、この世にない世界、ゼンブラの存在を描き出し、そこから暗殺者グレイダスがひたひたとこちらにやってくるということを、詩の流れに即して読者に告げる。その凝りに凝った手続きの明晰さ。グレイダスは、ゼンブラは狂人の妄想で、キンボートは危険人物で、と、読むほうは身構えて読むのだが、「でももしかしたら…」と疑いを抱かせるほどに、注釈は突拍子もないが、あるリアリティを持っているのだった。
長くなったが、二作は似ていない。しかし若島氏の読みにかかれば、二作は、どちらも愛する作品を盗み、自分の文章を追加して一般に刊行してしまった(このあたり曖昧ですすみません)という点で共通するのである。これが何を意味するかは議論が必要だが、ハッとした。


♯参考に。山形氏の書評は、言葉足らずで切り捨てていて、ちょっと酷いなあ。貶すならもっとどこかで書いていただきたい。過去には『CUT』の『透明な対象』書評とか、好きなものもあったが、最近のナボコフについての言及は、グッとこない。

若島正「青春のV.」『波』4月号 ※あんまり関係ないが。http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/537207.html
山形浩生氏の『ローラのオリジナル』書評『朝日新聞』4月24日 http://book.asahi.com/review/TKY201104260124.html


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