まがじなりあ・あちらこちら15 佐藤友哉の小説は読めないが自己言及的な随筆は好きだ

新潮社『波』7月号より。

 僕は今年で、作家生活八年目をむかえる。八年ものあいだ毎日小説を書いた結果、いろいろ成功して、いろいろ失敗して、思い出ができて、悔いが残って、大切なものができて、大切なものを失って、(中略)そして後輩作家ができた。このように退屈な時間が、歴史が、保険が、ついに僕を塗り固めてしまった。普通の作家が進むあのダンダラ坂に、ついに足をかけてしまった。(中略)
 何というか……『デンデラ』は、ダンダラ坂を進む最初の一歩のように思えてきた。僕はそこを子供っぽく嘆きながら、大人っぽく笑っている。自分の本心なんて解らない。ただ、勝利の心地で満ちているだけだ。
佐藤友哉デンデラ』刊行記念「ダンダラ」


何日かまえに読んだ、悲壮感あふれる金井美恵子『目白雑録3』(朝日新聞社)を思い出した。生活があり、そこを万全にちかづけるためにまず書くこと。それは不純で悲しい状況のようでもあるし、とても美しい状態のようにも思える。大体、あるときから大学の先生になった小説家が、そこから急によいものを書くようになっただろうか? ブツブツ言いながら、追い立てられるように書いている文士の後ろすがたの美しさ!(※)


※しかし、よいものを書いているかは別であるが。