まがじなりあ・あちらこちら17 週刊誌戦争が始まる…のか?(途中からポエムのようになってしまう)


ブログもほんとにたまにしか更新していないが、そのたび『週刊文春』のことを書いている気がする。

3.11以後、週刊誌の伝える情報はますます無くてはならないものになっている。『週刊文春』と『フライデー』は震災以後、毎週欠かさず買っている。もちろん面白くて堪らないから買っている。だが、黙ってへらへらしていたら、情報を取らないで悠々としていたら、どんどん不利な状況に追い込まれる、そんな恐ろしい時代が来たという気がするのだ。だから買っている、ということもある。『フライデー』先週の11月11日号は、「憤怒レポート「デタラメ年金」これは国家の詐欺だ! 30〜40代は1600万円以上カットも」は国の無策ぶりを鋭く批判する一方、30〜40代がもっと危機感を持ち、声を上げるべきだとする好記事だった。もう性善説では馬鹿を見るだけの時代なのだ。
週刊文春』は、『週刊現代』でグリコ・森永事件の真犯人であるという記事を書かれた作家黒川博行氏による反論を二度掲載した。『週刊現代』の裏とりの甘さはまず問題だが、岩瀬達哉氏による連載記事について、悪いことは認めるけれども同ルポの単行本は出させてもらうという、謝っているのか切り抜けようとしているだけなのか判断不能な後処理のいい加減さは文学的ですらある(お家芸ともいえるけれど。だから『現代』はほとんど読まない)。
http://logsoku.com/thread/raicho.2ch.net/newsplus//1318928910/

心安く日常を送っていても、弾丸がどこかから飛んでくるような時代である。歩いていても、飛び降り自殺者が空から降ってくるかもしれないし、ホームにいても、電車に飛び込んだ自殺者のもげた片腕が旋回しながら飛び込んでくるかもしれない。因果応報、ということなのか、今週の『週刊ポスト』11月11日号の電車内中吊り広告は目を惹いた。
<思わず目を疑いました 週刊現代は「年金カットやむなし」なんですね!? 本誌は断固反対します>。見出しで買ってしまった。『暮しの手帖』的というか、慇懃に行きながら相手の懐に入って喉笛かっさばいてくる、という文体が、突如はじまった、週刊誌界にビーフ戦争到来を告げているようで興奮した。「お父さん、知らないでしょ? 夕方ニュースは『デパ地下』『動物』『芸能』、以上。」という記事タイトルも、小気味いい。これから何が始まるんだろう?

『現代』はそうでなければよいがどうだろう。部数低下、制作費がおさえられ、以前のようにカネと人間をつかっての十分な取材ができない。結果、最低限の媒体的誠実さも失われ、ウラもとりきれていないスクープ取り(それはトバシ記事という)に走る…。

絵に描いたような話。メディアも耐久レースに突入した。面白いことがやれる人、やりたい人、どんな状況でもきれいなフォームでアプローチが打てる人でなければ脱落していく。終身雇用に脱落はないから、そうじゃない人をたくさん抱えているところから、体力をなくして消えていく。そういう怖いけれど、楽しい時代に突入した。この前も、東野幸治がこんなことをツイートしていた。

Higashinodesu Higashinodesu
ニコ生でみんな何してるんですか?教えて下さい。見たことないんです。“@aitihaehime: @Higashinodesu あの浜田さんもニコニコ生放送に出演してましたよね。Wコージで毎週ニコ生で放送とか・・・ゴクリ”
10月29日 »
Higashinodesu Higashinodesu
ないんですが、ニコファーレに出たいんです。ニコニコ動画でもいいんですが。“@yasuko403: @Higashinodesu 負け犬勝ち犬見てたら、東野さんがニコファーレの存在を知っていてビックリ。ニコニコ動画は見た事ありますか?”
10月29日

人気タレントがニコ動に出たいとつぶやき、そして一般のフォロワーに、どんなものなのか質問をしてくるという今っぽい面白さ。勝ち続けている人はいつも柔軟だ。それは認めないといかん。

デパ地下、動物、芸能に、惰性で付き合ってきた時代にヒビが入り、面白いもの、そこだけでしか得られないものを選択して享受する人たちが増えてくる。枠を埋める、紙面を埋める、それが自己目的化した媒体のゆっくり、ゆっくりな沈降を見届けよ。たくさんの動けない老人や目の落ち窪んだ若者、中年者を積んで船は次第に沈み、そこから抜け出したドロネズミみたいな人たちが何かを始めようとしている。

その時代は希望にあふれているけれども、そこに参画していくには、つねに精神を研ぎ澄まして、心を若くしていないといけない。それはある人にとってはとても、生き辛い世の中の到来を意味する。

ぼくたちの好きな冒頭15 ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』


光文社古典新訳文庫については、ドストエフスキーのブームがあったときに、ネットでもさんざん批判的なブログが書かれた。自分もジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』が新訳で出たとき、訳者あとがきの黒原敏行氏の意気軒昂な文章(いかに自分の新訳が正しいものであり、先行訳がおかしなものであるかを縷々と書く)な辟易したことがあった。何せ中野好夫チルドレンですからね、何冊も読んでる訳じゃないけども。

しかしことし、南條竹則氏によるチェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』を読んで、そのふんわり柔らかくて、構えも大きい感じに惹かれた。言うまでもなくこの寓話的で哲学的な推理小説吉田健一の先行訳があるが(創元推理文庫)、吉田の翻訳のクセと、この小説の伸びやかな感じは合わないという思いがあったので(ヨシケン訳は通読はしてないんですけれども)、ピクニックということばを使ってこの小説を捉えなおした南條訳はとても気に入った。

そんな個人的・古典新訳文庫見直しブームのなかで出てきたのが貝澤哉によるナボコフ『カメラ・オブスクーラ』である。まずAmazonの「遠近法」さんによる紹介を転載する。

 『カメラ・オブスクーラ』(1933)は、ナボコフが33歳のときにロシア語で書いた小説ですが、これまでの邦訳書である川崎竹一訳『マグダ』(1960)はフランス語訳からの重訳、篠田一士訳『マルゴ』(1967)はナボコフ自らが英訳したバージョンからの訳であり、ロシア語版原典の翻訳は本書が初めてということになります。 美しい少女と中年男の関係をめぐって展開される『カメラ・オブスクーラ』は、筋からしナボコフの代表作『ロリータ』を思わせますが、他にも類似点が少なくなく、1955年に発表される『ロリータ』の原型的小説と言えるでしょう。

10年位まえに自分がつくった拙い書誌にも、リンクを貼る。
http://homepage3.nifty.com/loom/nabokov4.htm
これによると、富士川義之氏は『ナボコフ万華鏡』で、<ロシア語版の原題は『暗箱』で、英語版が『暗闇の中の笑い』>と紹介している。暗箱。

河出書房新社の世界文学全集の一冊として刊行された『賜物』につづき、英語版からの和訳は出ていたがロシア語からの和訳がなかったナボコフ小説の、<ロシア語
原点からの初の翻訳!>(帯より)である。貝澤氏は『ナボコフ全短篇』を除けば、ナボコフの長編の翻訳はない。あとがきによれば『賜物』の沼野充義の推薦によるものだったとのこと。

「訳者あとがき」には、英語版からの翻訳があったことは書かれているが、『マルゴ』という書名も、篠田一士の名前もないし、ましてや仏版からの重訳『マグダ』の存在など触れられてもいない。あとがきになくても、巻末かどこかにひとこと書誌データについて触れられていれば良いのだが、それもない。英語版とロシア語版ではまるで別物だという解釈も判るけれども、わが国における翻訳の来歴にまったく触れられていないというのは、「古典新訳文庫」を名乗る文庫にしては乱暴すぎる。何か、いやなユルさを感じる。

ともあれ滑り出しは素敵! 書き出しをご覧ください。

一九二五年頃、かわいらしくて愉快な生き物が世界中を席巻した――今ではもうほとんど思い出されることがないが、当時は、つまり三、四年のあいだは、世界のいたるところであまねくその姿を見ることができたのだ――アラスカからパタゴニア満州からニュージーランドラップランドから喜望峰にいたるまで、ようするに色刷りの絵葉書が届くところならどこにでも――。この流行りの生き物にはかわいい名前があった。チーピーだ。
ナボコフ 貝澤哉訳『カメラ・オブスクーラ』(光文社古典新訳文庫

チーピー!!


カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)
ナボコフ
光文社 (2011-09-13)
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 五ヶ月ぶりのライブはあした!

お元気ですか。自分は精神は図太くできているが、こう政治も経済も不安定だと、さすがにどんよりとしますね。先日も久しぶりにバンド練習をしましたが、東京の東側のある駅のホームから、投身自殺をする人が後を絶たないという週刊文春の記事を読んで、「SHIN-KOIWA」という曲を作ったのでした。正確に言えばtaon氏の作ってきたトラックに勝手なMCを乗せてやっただけなのですが、そのトラックは、展開がドラマチックで明るい調子をしているので、MCとまったく合っていないというのがミソです。

河出文庫から出た『封印されたミッキーマウス』を移動中に読んでいるが、たとえば、ある土地には特殊な歴史があるけれども、そこでいま歩き、空気を吸い、生活している人はまるで知らないような、かつてそこで起こった事件や運動がある。新小岩駅のホームで、ある朝笑顔で談笑する人がいて、前の日の同じ時間、飛び込んだ列車にぶつかったその衝撃で胴体から分離した片腕が、くるくる旋回しながらキオスクのガラスを突き破っていたりする。同じ場所で、だ。
同じ街を見ていても、まったくちがって見えるという話。崩落するワールドトレードセンターの粉塵を浴び、倒壊するビルから自ら身を投げた人々の肉のかたまりを受け止め、こんどはウォール街反対デモ参加者の怒号や一歩一歩を受け止めるニューヨークの地面(ground)に思いをめぐらせたり。ピンチョンの『ヴァインランド』も、家族史とも変化するアメリカ史とも読める。こんな話、アースダイバーをうすめた与太話?

毎日不景気な話ばかりだし、目が覚めるたびに背中がバリバリするし、目玉がショボショボする。手足もなんだか日に日に重い。それでもどうにか前を向いてやれているのは、先週野音で聴いた向井秀徳ソロのヤングガール17セクシュアリーノウイングや自問自答のおかげだったり、au4Sで快調に浴びるように眺めてる、YouTubeの懐かしいゲームや吉木ちゃんの動画だったり、iPhoneビョークバイオフィリアアプリだったり、モテキ麻生久美子の決定的科白のせいだったりする。そんなもんで、どうにかなるものだ。後藤真希も言っていた。だいじょうぶきっとだいじょうぶ、だいじょうぶ全部気分次第。あれ、自分次第?だったかな、一文字で決定的に運命分岐する、生き霊のような日本語の重さ!

バンドの練習や演奏の発表も、人生の調律活動といえばそうである。しかしそこには他人を巻き込んでどこかに連れて行こうという野心と希望がある。

わたしどもryuto taonと抱擁家族は、五ヶ月ぶりにライブを行います。以下、企画について、ライブハウスのステイトメント。

LIVE HOUSEの旧態然とした状況を喝破すべく新風を吹き入れることをテーマに発足したAtisa-Kuokに続き、更なる広域拡散を狙ってついにダンスシーンとライブシーンの合体を図る実験的イベント。各界より文化性に富んだ前衛的なアーティストを招集。ミッションズダンスシーンの中核を成す層々たるDJ陣でお届けする。注目は若くして大物アーティストとの共演も数多くこなしてきたDeep Minimalの先鋭Yuto Sasaki。六本木、渋谷界隈で目下活躍中にして衝撃的Deep Houseのplayを見せるyo-shi。live actにはその超絶ギターと高い風刺文化性で各界から呼び声の高い日比谷カタン。新しいスタイルのラップと斬新な歌詞でホールの空気を支配するBUJI TRIBE+Rich Jazzman、ほか全てのアーティストが実験性と斬新さを持っている。マンネリ化した日常に新しいライフスタイルの刺激と遊びの場を提供する。リピート必至の一夜!!

10/21(FRI) 
◆Impulsus friday vol.1
【techno/house/erectro…and Live performance!!】
@Kouenji Mission's
OPEN/START 22:00
A.D ¥2,000(w1d) D.O¥2,500(w1d)

《場所》高円寺クラブミッションズ(http://www.live-missions.com/index2/2index.html
※JR高円寺駅北口を右折(新宿・中野方面)して、線路沿いを300mくらい歩く。ファミリーマートとお酒のカクヤスを右手に見ながら行くと、おなじく右手に出てきます(女神転生的・3DRPG的な説明)。

《DJ》
Yuto Sasaki
Yoshi
Rich Jazzman
NOSE
ZAKI
jintatsuno

《Live》
日比谷カタン
BUJI TRIBE+Rich Jazzman
ryuto taonと抱擁家族
VATO


五ヶ月ぶりのライブはまさかの、日比谷カタンさんとのふたたびの対バン! 全力でやります。わたしども夜の11時から、イベントの熱気に燃料くべていく時間の出演です。二次会や残業あけに、あるいは昼間寝て夜あそぶ暮らしのなかで、ぜひお越しください。

まがじなりあ・あちらこちら 日本の夏、おれと原発の夏


雑誌はちょっとしたところに大事なことが書いてあったりするので気が抜けない。『週刊文春』9月1日号の和田誠による表紙画は、中村とうようの死を悼んで、『ニュー・ミュージック・マガジン』創刊号と、和田氏が装丁をした中村の著書二冊のイラストレーションになっている。この号のコラム(「本音を申せば」)で、小林信彦も中村との一度だけのやりとりをごくみじかく紹介している。コラムのおわりの畳みかけるようなことばに打たれた。

 一九四五(昭和二十年)二月のヤルタ会談のころ、日本が両手を上げれば、歴史は大きく変わっただろう。
 三月十日の下町大空襲、五月二十五日の山の手大空襲もなく、東京以外の都市や広島、長崎の核攻撃もなかった。NHKは<日本人はなぜ戦争へ向かったのか>といったドキュメンタリーを放送しているが、国民を戦争に駆り立てたのはほかならぬNHKのニュースであり、扇情的な大新聞でもあった。ぼくはこのころの大新聞の縮刷版を持っているが、唖然とする内容である。
 国民は驚くほど指導者を疑わなかった。(中略)
 懲りるということがない。

 フクシマがああいう状態になっているのに、北海道の高橋はるみ知事が泊村の泊3号機の再開を容認したというのは、こうした<疑わない>習慣とつながっている。この知事は元経産省官僚で、資金管理団体の会長は元北海道電力会長ときている。


高橋知事のくだりはおそらく、前週の文春か新潮の告発記事を読んでのものだろう(追記・『FRIDAY』でした)。

五者交代制の連載「私の読書日記」は、この号では立花隆が書いている。冒頭で、原爆資料館を訪ねた際に手にした『なみだのファインダー 広島原爆被災カメラマン 松重美人(http://www.peace-museum.org/documentcenter/groundzero/groundZ-3.htm)の1945・8・6の記録』(ぎょうせい)を紹介している。

松重氏は中国新聞のカメラマン。爆心から二・七キロの自宅で被爆したが、一刻も早く会社に行こうとカメラ片手に急ぐ途中で、あの写真(かちゃくちゃ注・原爆投下直後の爆心地付近を撮った唯一の写真「御幸橋西詰派出所付近」)を撮った。(中略)この日松重氏は、合計五回しかシャッターを押していない。爆心近くで、市電一車輛分の乗客が、座席に坐った人は坐ったまま、つり革を持った人は持ったまま、みんな即死している場面に出会ったが、「あまりむごすぎて」ついにシャッターを切れなかった。ヒロシマナガサキを通じて、原爆投下当日の写真は、結局、その五枚しかない。


しかし立花氏は原爆の脅威、もたらすむごたらしさを紹介しながら脱原発に持っていくような文章へつなげていくわけではない。<客観的にいって、原発と原爆は全くの別物である。>と言ったうえで、原子力の善についても目を向けるとの立場を示す。<核をすべてアプリオリに邪悪なものと決めつける、「脱原発以外に道なし」論者が日本の多数派になりつつあるようだ>として、クロード・アレグレ、ドミニク・ド・モンヴァロン『フランスからの提言 原発はほんとうに危険か?』(原書房)を反証として提示する。

 核をアプリオリに邪悪なもの視する人々は、核は人間にコントロール不可能なものと思いこんでいる。(中略)しかしフクシマで起きたことは、第一世代第二世代の古い原発マグニチュード9.0という史上未曾有の災害が襲いかかったときに起きたことで、現代の最先端の原発(いま第三世代半まできている)では決して起りえないことがすぐわかる。いまの原発では、フクシマの悲劇の最大のもとになった水素爆発が絶対に起らない(水素が発生したとたん触媒によって酸素と結合させられ、H2Oになってしまう)。フクシマの悲劇をもたらした全電源喪失メルトダウンも絶対起らない(電源なしでも冷却継続)。いまの日本の原発論議は、驚くほど時代遅れの内容になっている。


立花氏の知見は自分は知らないものだったが、納得いかない、丸めこまれてはいけないものを感じる。第三世代半のピカピカの原発の真下から9.0が突き上げてきて、間髪いれず防波堤をかるがる飛び越える津波原発を飲み込んだとして、原発から放射性物質が噴き出さないか、あるいは噴き出してしまうのか、それは措くとして、この問題は立花氏が注目するようなテクノロジーをめぐるものに限らないからだ。原発を推進した人々と助けた人々、それを看過したわれわれ、事件後の情報の伝え方と対応、それへの追及といった、組織と個人、社会と利権という、ひろい視点でみるべきものであり、そこに一番の病根がある。小林氏が3.11以後、繰り返しコラムで、フクシマをめぐる現在と対比させているのは、旧日本軍とそこにぶら下がる大本営発表、それに振り回される国民という戦時下日本社会だ。原発が安全ならそれでよいのか? 原発を誘致する人、売り込む人、利益を得る人、批判する人、無関係な人、ぜんぶひっくるめて原発問題なのだ。主張として頷くところもあるが、狭窄的に感じる。

先月15日、秋葉原クラブグッドマンの「東京BOREDOM×FUKUSHIMA!」(http://www4.atword.jp/tokyoboredom/)で見たRUMI(http://www.sanagi.jp/)のパフォーマンス(日本にほんとうに根の張ったレベルミュージックが生まれたのだという実感)、先週、友人と飲んだ時の「原発はカタストロフかそうでないか?」での口論(というかおれがブチっときただけ)など絡めて書こうと思ったがつながらなかった。友人(名は秘すがいつも出てくる人)の言っていた、放射性物質は有限で、冷却など対処をしなければ半永久的に放出され続けるというものではなく、長いか短いかは分からないが、そのうちに勝手に出尽くして止まるものである、という話は常識なのですか? おれはたくさん勉強をしているわけではないが、どちらかと言えば立花氏のいう<核をすべてアプリオリに邪悪なものと決めつける>人間なので、この話はちょっとおどろいた、と同時に、ホントナノカナ?と思った。


大衆決断の切り抜き帖3

 西村賢太が描く北町貫多の物語は、このように様々な落差をちりばめることによって、読者を小説スパイラルの中に強引にひきずりこむのでした。
「おい、ぼく、明日岐阜に行ってくるからね」(「瘡瘢旅行」)
 という台詞における「おい」と「ぼく」の間の、歯触りの落差。そして間をとりもつかのように存在する「岐阜」という地名の、絶妙な曖昧さ。また、「ワンピ」、「太モモ」、「絶景ポジション」といった軽い言葉と、「聊頼」、「突兀」、「牢籠」といった古風な表現の、落差。そしてふとしたきっかけで極端から極端へと変わる、貫多の態度の落差。
酒井順子「解説」西村賢太『廃疾かかえて』新潮文庫


酒井氏、悠々と、バランスのよい解説。きょう読み終えた阿保順子『認知症の人々が創造する世界』(岩波現代文庫)というのも、大変よかった。新しい世界が広がった。来週末は、ニコファーレといった場所へ、行ってみたい。おなじ来週末には、本棚が一本来るので、また本読みや本屋がよいを一生懸命やりたい。このところ、地デジにしたらスピーカーが動かなくなるし、旧いレコーダーの中身をDVDに焼かないといけなくなったし、iPhoneに挿して使っているお気に入りのカナルイヤフォンがなかで断線したのか、ぶちぶち言うようになったし、変更してもいないAPPLE IDが突然、使えなくなるし、エアコンのリモコンは探したって見つからないから注文をしたけれど、まだ来ないし(もう一年近くエアコンを動かしていない。さすがに今夏は死を予感する)、初めてエアコンの掃除というのを業者さんに頼んだけれど、一度延期させてもらったらだいぶ先になってしまったし、原発の状況が気になるけれど『週刊文春』『フライデー』を購読し、ツイッターをこまめに見ても、まるで伝わってこないから、この夏は何も片付かないし、金井美恵子じゃないけれど、やたら疲れる。

ヘンな文章が好きだ 


さいきんハマっているのが、ものすごい熱量をもって、他人を巻き込んでいく、企業家とか、組織の長、みたいな人についての記事だったりインタビューだったりを読むことで、自伝は読まない。客観的に、そのそばにいた人が書いたものとか、引き出した発言が、面白い。もてるあらゆる知恵と弁舌と人脈をつかって、人の心やカネやモノを動かす、こういったタイプの人間には共通するものがある。類型がある。それを自分なりに探っている。そういう興味からすると、とにかく本橋信宏の『裏本時代』(新潮OH!文庫)は面白かった。サブカル出版物の必読書だから、この年で読んだって書くのは、わりと恥ずかしいのだが、ここで描かれている村西とおるの発言や動きは人たらしの典型である。「応酬話法」と名付けられた弁論のテクニックとか、その生生しく再現された会話のいくつかを紹介したいが手元に本がないので、きょうはまた、ぜんぜん別の業界の人のインタビューを引く。

 めざすは、世界69億人の人々とともに「地球環境保全」を掲げ、生命の扉を開錠して生命にマスターキー「III」を刻み込むこと。これはSPC憲章として謳われている。このマスターキー「III」とは、抽象界、具象界、現象界のことで、哲理をふまえた哲学根拠としている。
「SPC JAPAN創設理事長 横山義幸氏かく語りき 「小欲」を捨て「大欲」に生きる これがSPCの組織力学だ」『ビービー・コム』2011年6月号(ビービー・コム)

これは美容室の会員制組織のリーダーの方を取材した記事なのだが、そう言わないとなんだか判らないような一文だ。話が急に大きくなる、「夢」とか「成長」ということばが頻繁に出るとか、共通点があります。要は自己啓発なのだが、こういったものを以前は自分は胡散臭いと毛嫌いしていたが、けっこうこうした考え方は、実業に世界において、事業の成功と無関係ではないということが判ってきたので、ちょっと見方が変わってきた。考えがまとまったらまた書いてみたい。